石ころ

価値 (マルコ10章)




 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。(新改訳では「尊い先生」)(マルコ10:17~18)

「走り寄って、ひざまずいて『私は永遠のいのちを頂きとうございます。』」と言えば完全だったのに惜しいなぁ・・。
「何をすれば・・」なんて言うから、人には出来ないことに気付くようにと条件が付けられた。
「善い方」と信じているなら、すべては祝福のためと喜んで従ったはずである。だから「なぜ、」と言われたのだろう。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マルコ10:21)

「律法は子供の時から守っている。」という青年に、「彼を見つめ、慈しんで言われた。」主にこんな目で見られたら、もう何だって捨ててしまうと思うけれど・・彼は去って行った。
お金の力は強力だ。お金で命は買えないけれど、彼は永遠のいのちと引き替えにした。
青年はイエス様に、どのような言葉を期待したのだろう。

イエス様は救いに至らない者に対しても、このように慈しみに満ちた御目で見つめて居られると気付かされた。
そう、十字架で流されたあがないのための血は、すべての人が救われるようにと流されたのだから、誰に対しても主の元に帰ってくるのを待ってくださっているのだ。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:25~27)


自分の命を救うほどの行いとは何だろう・・。人の永遠のいのちの為には、十字架で御子の命が支払われなければならなかった。神でないとできず、どんな人であっても信仰によってただで永遠のいのちは受けるのだ。

ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。(マルコ10:28~30)


青年が全財産を売り払ったとしても、それはイエス様の百倍の祝福となって戻ってくるものなのだ。だから、どの様な犠牲を支払ってもそれは代価とはならないのだ。
確かに主は御前に捧げたものをあがなってくださる。それは本当に捧げきって手放した時経験することである。
主が見つめていてくださる御前に、捧げ物があることは幸いなことである。
いや、主はどんなに貧しい者にも捧げものを準備してくださるお方であった。

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