イエス様の故郷の人々はみことばを聞き、御わざを見て「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」
と言っている。でも、その力の源を知ろうとはしなかった。悟ることはなかった。
彼らは、イエス様がこれまで出会って来られたどの人々よりも、人となられたイエス様を知って居た。それは事実である。
でも、「キリスト」に対する渇きはなく、癒しも彼らには必要のない、何でも良く知って居る健全な人々だったのだろう・・。
医者である主を必要とするのは、罪という病に苦しむ病人だから・・。
川を知って居ると言っても、足首までの小川を渡っただけの知り方もあり、激しい大川を横断した知り方もある。
深みにどんどん入って行くとふわっと体が持ち上げられることを経験したり、みことばにより水は体を支えて、上を歩かせることもあるという・・。そこまでの知り方を求めることもできる。
思いを巡らせていた時、「あなたは何処まで知りたいのか・・」そんな声が聞いたように思ってちょっと・・たじろいだ。即答できない自分の信仰レベルを知った。
頭の中だけで丸暗記しているみことばと、生身に経験したことでは、それはまったく違うことだ。みことばは時に、脈打つようないのちのドキドキや、包み込むような温もりがあるのだ。そんなふうに経験しないとつまらない。もったいない。
聖書はとても不思議な本である。
繰り返して同じ箇所を読んでも何度でも新しい発見があり、別の箇所から新しい理解に繋がったり、いつも新鮮で飽きることはない。
それは初めの理解が間違っているわけではなくて、理解の角度や、深さによって変わるのだと思う。なぜならそこに不安や恐れを感じないから・・。むしろパズルのピースが揃ってゆくようなワクワク感があるのだ。
今日の私にみこころを教えてくださる。それは昨日と同じ事ではない。だから日々新鮮で期待感に溢れて座るのだ。
みこころとは形にはまったものではない。日々変化して、ゆっくりと成長する私たちに応じて、細やかに語り導いてくださるもの・・。そうした交わりの甘さを味わうことだから・・。
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)
みことばの森を散策することを恐れることはない。「探しなさい。求めなさい。」と言われている。主が隠された宝を見つけ出すことこそ、主のなによりの喜びだと思うから・・。
「子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」(マタイ7:10)
「卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。」(ルカ11:12)
「もう、知って居る」と思ったらそれでおしまいだけれど、「今日、私は新しく主を知った!」そんな日々を送りたい。御許に召してくださるまで・・。
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ムベ
電気屋
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