ヨハネの死を聞かれたイエス様は「ひとりで寂しい所に」行かれた。
パンの奇跡の後も、ひとりで山に登られ夕方までおられた。
イエスの孤独が染みるような箇所である。御父との交わりだけがイエス様の力だった・・。
御父から注がれる力によって、イエス様を真に知る者の無い世で働かれていた。イエス様は完全な人であったのだから、寂しさも孤独も・・心の痛みもやりきれなさもご存じだった。
群衆のために「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われて、準備できたのはひとり分ほどのパンと魚だった・・、けれどそれで十分だったのだ。
それはイエス様の祝福によって無限に増えた。必要な人のすべてを完全に満たしてなを余るほどに・・。私たちはどんな時も、主に在って「足りない」と恐れることはないのだ。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)
このみことばを知っていても、問題に出会った時にうろたえる不信仰。弟子達も再び同じ問題にであった時、同じようにうろたえているけれどそれが人なのだろう・・。
湖の上を歩くイエス様に恐怖する弟子たち。常識ではかれない時人は恐怖する。でもイエス様は初めから終わりまで、人の常識ではかれる部分なんか無かった。人の造った神なら人の常識の通りだろうけど・・。
人を造られた方のことは、多くのことを教わっても少しずつしかわからない。
しかし、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」みことばは何時も信仰に引き戻してくださる。
イエス様の「来なさい」という御声に信頼して水の上を歩いたペテロだったけれど、波風を見て恐れに捕らわれ沈みそうになった。
「主よ。助けてください。」と主に呼ぶことは、不信仰な自分をそのまま主に持って行くこと。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と聞くけれど、主の御手はもうペテロをつかんでくださっている。叱責よりも早く救っていてくださるのが主の御真実。だから、主に叱られることは甘いのだ。
不信仰を暴露される度に差し出してくださる御手。キリストの温かさを経験させつつ成長させてくださる主。
「来なさい」と今日も呼んでくださっている。
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