石ころ

追悼




 いのちの恩人である友が天に召された。私よりもずっと若い方なのに・・癌との壮絶な戦いの後であった。それでもご近所の方は笑顔を見たばかりだと言われた。
訃報を聞いて胸の痛みで動けなくなった。主にすがりみことばに励まされて駆けつけた。
しかし、承伏することのできない現実を目の前にした時、場をわきまえることが出来ない呻きが腹の底から溢れ出た。私はクリスチャンとして、すでに彼女がパラダイスにあることを充分承知しているのに・・。

その日のみことばはローマ14章から「主のために生き、主のために死んだ」であった。それは彼女自身に対する神様の賛辞だと思った。キリスト者にとってこれ以上の光栄があるだろうか。
それは肉にあっては別れであっても霊にあっては喜びであり、生きていても死んでいても主に在っては何も変わらないことの確認となった。肉体は過ぎゆく仮の衣にすぎず、天にて滅びることのない霊の体をたまわり、キリスト者の真のいのちは永遠。こちらが真実なのだと・・。

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7~8)

この「だれひとりとして」と言う言葉に、ヘブル書11章の愛の神による先人への評価を思い出した。主は評価して下さる方と感謝があふれた。


 彼女は私を教会に導いてくださった方である。息子が幼稚園のときご一緒して、引っ越して間もない私に声をかけてくださった。その時、何からか「祖父はクリスチャンでした」と話したことでトラクトを入れ続けてくださった。しかし、それらは読むこともなく引き出しに放り込んだままどんどん溜まっていた。いよいよ行き詰まる日まで・・。
主に追い込まれて行き詰まり、助けを求めたとき車に乗せて「最初はこの方が気楽でしょ」と、教会の女性の集まりに連れて行ってくださった。
我が家の救いの始まりであった。

 聖霊のバプテスマを洗礼前に受けた時、私は無知でその言葉さえ知らなかったが、身に起こった出来事を彼女だけには話した。彼女はなんの疑いもなく、「その時、私も何かを感じた。」と言われた。これはとても不思議なことである。それぞれの家に居て突然の出来事だったのだ。

霊の子どもとしての私を彼女は甘やかしてくださった。私が主を甘いと感じるのはその影響もあるのかもしれない。私はよく信仰生活についての疑問や正論をぶつけて、彼女を「ごめんね、それは私が悪かったわ」と謝らせてしまった。
今思えばなぜ彼女が謝らなければならないのか・・と思うことだけれど、彼女の謝り方があまりに素直だったので、私は自分が何をやっているのか気づいていなかったのだろう。

家柄も学歴もすべてに勝っている立場にあって彼女はまったく謙遜だった。私は彼女の前で自分を卑下したことが一度もなかった。いや、なんだか何時も威張っていた。彼女から霊の子どもという立場の心地よさを何時も味わっていた。

私が入院したとき「腎臓病」と聞いて、6月の初めなのに家にスイカを届けてくださった。じつは病名が間違って伝わったのだけれど、彼女の愛の形が心に焼き付けられている。
また、男だけになった家に「熱々のエビフライを、大汗をかいて持って来てくださった」と主人が繰り返し感動して話した。主人の心にも、彼女を通してクリスチャンの愛が刻まれていた。

 しかし、激しい言葉をやりとりしたこともあった。何も相談せず私が突然教会を離れたとき、「残された者の気持ちを少しも考えていない。」と言われ、激しく言い合ったことがあった。
私が、家族を教会に残したまま20年も居た母教会を出た時のことだった。
そのとき、彼女の神経を逆なでするような言葉を言った覚えがある。それは一生懸命に伝えようとしてのことであって、家族にも説明しなかったことを彼女には伝えようとしたのだったが・・。
その時も、何時ものように紅茶を入れてお菓子を準備してくださった。彼女はそういう人だった。
長い年月の中では近くなったり少し離れたりしても、顔を合わせた瞬間に満面の笑みとなって、元の関係に戻り「話したくてたまらなかった」と互いに言い合った。

 お葬式が終わって家に戻り、「残される」ということの意味に思いを巡らせた。
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエスさまは言われた。人はあらゆることをする。でもそのすべてが良いという人はいない。主は御旨に叶った一つを評価してくださる。私の一つは何なのだろう・・と。

神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ14:17~18)


ローマ14章には、飲み食いのことを通して互いに裁くことの戒めが書かれている。肉のことではなく、霊の平和を互いに追求することであると・・。
私たちの格闘は人の血肉に対するものではない。イエスさまの厳しいお言葉は裁くためではなく、いのちを支払って語られた愛のことば、みことばの剣がどれほど鋭くても、祈りを持って語られるそれは愛である。「主のために生きた」と言う言葉を、真に全うしたいと祈った。

 送迎バスの中で、「賛美歌って心が洗われるようね」話しておられるご近所さんの言葉に、姉妹の嬉しそうなお顔が浮かんだ。
「天へのゴールイン!おめでとう。そうして、本当にありがとう。
直にまた会いましょう。今度は永遠に別れることなく、心のすれ違うこともない完成された愛の中で!」

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コメント一覧

ムベ
とても励まされました。本当にありがとうございます。
デ某さん、コメントありがとうございます。
はい。しばらくの別れと分かって居ても・・、心が付いて来ないことがあります。
歳を取ると言うことで、どんどん世での足場が外されて行くように感じます。

素晴らしいことばを紹介してくださってありがとうございます。
「アーメン(まことにその通りです)」と読みました。
私も、口に出してこのように告白させていただきました。信仰を持って告白したことばが実現することを知っていますから・・。
「結婚生活」の祝福は、聖書的にはクリスチャンはキリストの花嫁なのです。
ですからこの箇所は、心から・・です。感謝です。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(詩編23:6)
同じ言葉が書かれている聖書箇所が浮かんできました。

デ某
ことば
し「神さまの御許に」とは思われつつ
それでも親しき人が昇天されれば悲しみも深く・・・。

ある方がジョイス・マイヤーさんの著から次のくだりを引用されていました。

『神様は私を愛し 私の人生に最高の計画を用意し実行してくれている。
私がどこに行っても、神様の好意がそこにある。
 私が手に触れるものは全て栄え、成功する。
 私の為に正しい扉を開けて、間違った扉を閉めてくれる。
 私は知恵の中を歩む。
 私は平安で満たされている。私は喜ぶ。
 私は愛の中を歩む。今日、何か良いことが起きる。
 私の子供たちはみんな、神様を愛し神様に仕える。
 私の結婚生活は、毎日毎日良くなっていく。
 私は、どこに行っても祝福となる。』
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