石ころ

いのちの冠を奪われないように




 温かい湯船にゆっくりと浸かると、「ああ、ええ~気持ち・・イエスさま感謝します」と口に出る。
「今日のみことばは何だったかなぁ・・、何に感動したのだったかなぁ・・」と記憶を手繰るがほとんど直ぐには出てこない。

やっとして・・「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する自身の愛をあきらかにしておられます。」(ローマ5:8)みことばを思い出す。
そうして、主はいのちをお与えになる方、私たちの味方、昨日も今日もいつまでも同じ方と、その平安を深く感謝していたことを思い出した。

それにしても不思議なことだ。みことばにどれほど感動してもそれは時とともにまるで蒸発するように薄れて行く。
静まって思い返し聖霊の助けによって噛みしめないと、永遠の祝福のことばを忘れてゆくのだ。そんなことはあり得ないはずなのに・・。
当選した宝くじさえ忘れてしまうことは決してないはずである。この世の用いればすぐに消えて行くものに対してさえそうなのに・・。

 しかし、疑いや思い煩い、時には怒りや憎しみなどは執拗にまとわり付いて、殺しても殺しても復活するゾンビのようでさえある。
このような不幸せな思いは、誰も願っているわけではないのに現れる。だからこれは人の内に潜んでいる罪のなせる業なのだろう。パウロの言葉のとおりだと思う。

これを自然に任せて放置するなら、必ずたまわったみことばを浸食して行くことになる。そんなことになったら生ける神の力を経験することが出来ない。
よみがえりのイエスさまの、「平安があなた方にあるように」という備えを受けることも出来ない。
みことばの剣を用いて身を守ることは福音を聴いた者の責任なのだ。

 ひとりできれいなお湯に浸かる時しみじみ贅沢だと感謝する。しかし・・、それにも増して甘いみことばの御交わりは、身に染みて贅沢なことである。
みことばは永遠までも変わることのない主の御約束、みことばに留まり続けよう。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示録3:11)

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