石ころ

主を知る恵み



彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」(Ⅱコリント10:10)

イエス様に出会って新しくされたパウロは、「人間的なものを頼みにしない」と言った。塵芥として捨てたものを用いて話すことはなかったのだろう。
彼は人間的な権威を捨てて、主に在る弱さを纏った。だから、彼は人の評価を得ることはなかった。人の間で通用するものと、神の霊によるものは水と油であるから。

ノーベル賞とかオリンピックのメダル受賞者には人はこぞって拍手を送る。人の与えた権威は人間賛歌であるからだ。それには自分を含めて感動することが出来るからなのだ。
だから人は、神を知ることさえも人の知恵や知識によって知ろうとする。愚かなことである。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

イエスをキリストと知ったのは誰であったか、律法学者であったか、パリサイ人であったか?
いや、無学な罪人たちであった。なぜ彼らはキリストを知ることができたのか、弱かったからである。その弱さの中に主から入ってくださったのだ。


 金持ちの青年に、イエス様のお言葉に完全に従順しようとするほどの行いがあれば、自分がアナニヤやサッピラのような弱い者であることを知ることができたであろう。アナニヤとサッピラの罪はお金を取っておいたことではなく、善行を装ったことである。人が自分の弱さをごまかすなら、救い主を求めるチャンスを失い永遠の死が待って居る。

行いによって救われようとすることは悪くはない、イエス様も良い行いは勧められる。それは、真実に行おうとすれば誰でも弱さを思い知ることとなり、イエス様の元に行かざるを得なくなるからである。イエス様の導きはそこにあるのだと思う。
ご自分が介入することができるように、心の門を開けさせようとしてくださるのである。主が完全に働くことの出来る弱さを求めておられるのである。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25)

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