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石ころ

やもめの献金



 イエスさまは献金箱に向かって座られた。献金は人のいろいろな思いが露わになることでもあって、祝福ともなり罠ともなる。
イエスさまは人のその行い、その心のすべてを真っ正面からご覧になっておられた。

その時、やもめの女がレプタ銅貨を2枚献金箱に投げ入れた。彼女が生活費のすべてを捧げたことをイエスさまは知っておられた。
それは彼女の全財産だと思う。貧しい者にとっては生活することだけですべてであるから、それ以外の財産があるはずもないのだから。

 旧約聖書のやもめは、
「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」(Ⅰ列王記17:12)とあるけれど、

彼女はこのように死ぬつもりでいたのではない。イエスさまがそのようにはおっしゃっていないのだから。
では、彼女の望みは何処にあったのだろう・・。それは自分のために使うことではなく、すべてを神様に捧げるということに望みがあったのだろう。

彼女は自分のやりくりを捨てて、信仰によって神様に命をゆだねたのだろう・・。生活の糧のすべてを差し出すことは、命を差し出すことでもある。望みのすべては神様にある献金。これほど聖なる捧げ物があるだろうか・・。

 全財産を捧げる彼女の行いは、不信仰な私にはたぶんまねはできないだろう・・。私はむしろ旧約のやもめかもしれない。
でも、彼女も神様に選ばれ、すべてをエリヤに捧げることを導かれて救われたように、ただ、一方的な神様の選びによって救われるという恵みがある。そこに私のすべての望みがある。


 人間的には、金持ちの大金に頼りたくなるのもわかるけれど・・。もし宮にとって、このやもめのレプタ2枚だけだとしたらどうなのだろう・・。
しかし、貧しいやもめさえも養ってくださる主が、どうして宮の必要を満たし給わないことがあろうか・・。イエスさまには、二匹の魚と五つのパンで十分なのだから・・。

イエスさまは彼女を見ていてくださった!彼女のすべてをご存じの方がじっと見ておられた。そのことに感動を覚える。
人に対しては、
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:3)
このように戒められているけれど、主の光の中で捧げることは喜びである。
そのまなざしを思い出すなら、それだけで幸せなことである。彼女のように、もう明日のことなど心配しないほどに・・。

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