石ころ

ザアカイの祝福



ザアカイはイエス・キリストを「どんな方か見ようとした」とある。彼は金持ちで取税人の頭であり、その時彼自身が救いを求めていたのか?その事については書かれていないからわからない。ただ、噂のイエスさまを見ようと行動した。

それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。(ルカ19:4)

背の低い彼の前方に木が準備され、すべてのタイミングは計算されていた。「ちょうど」という言葉が2度繰り返されている。彼の必要を準備されたのは主である。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)
イエスさまは低い所から声を掛けられた。

イエスさまの方から彼に来てくださったことは、私に来てくださったこととも重なる。「あなたを私の家にお迎えする資格はありません」などと言う間も与えないほどのタイミングであった。

イエスさまには御父のみこころによって、彼を救うことが必要なのである。天地創造の神が、虫けらのような一人ひとりの必要のために、緻密なご計画をたてて御子を遣わしてくださる。それは人が神の作品だからである。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(ルカ19:6)
イエスさまの御声を聞いた瞬間にザアカイは大喜びした。1ミナの恵みを受けて10ミナの喜びをお返ししたのだ。感謝と喜び以外に人がお返しするに相応しいものなど何も持たないと思う。

これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。(ルカ19:7)
罪人が救われることは、罪人には妬みであって喜びとはならない。罪人の救いを喜ぶことができるのは、救われて神の子とされた者の特徴である。

主が個人的に語ってくださる御声を聞いたとき、人は幼子のようになる。御愛が渇いた霊、魂を一瞬に満たしてくださるからである。
注がれた神の愛が溢れて伝道となる。豊かに与えられたから気前が良くなって、賜った愛を分けたくなるのである。

ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

賢い人が聖霊に触れられると、十字架のことばをそのまま信じる愚かさを頂く。計算高いザアカイが幼子のようになり、世に誇り高く生きて来たパウロが「私は罪人の頭」と喜んで告白するようになる。
それは、キリストに似たものに変えられるからである。

一人ひとりに対するこのような主の熱心こそ不思議でならない。聖書の到る所に、神様の謙遜と愛は詰め込まれている。
その事実を発見する聖書は喜びである。登場する人物のストーリィはこの身に重なって、時を越えた壮大な賛美のハーモニーに巻き込まれて行くのである。

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