こんな風にもて囃されること、それは決してダビデの望むところではなかっただろうと思う。
こんなふうに囃し立てられる立場は恐ろしい。ほめられるべきはダビデではなく勝利を与えられた神である。このように囃す人々によって、ダビデはとても辛い経験に追い込まれて行った。
最後まで勘違いをしなかった、ダビデの真実な信仰に教わることはとても多い。でも、信仰の結果をもって人をほめることは本当に恐ろしい。その結果はただ、神の憐れみによることなのだから。
ダビデは信仰者だったけれど、勇者ではないと思う。彼はいつでも、自分の勇気で戦ってはいなかった。ただ、主に信頼して主を恐れて、自分の成すべき事をしていただけ。
サウルは選ばれてすぐに王とされたけれど、ダビデには長い時間をかけられた。ダビデも決して自分で策略を巡らせたり、チャンスを用いて王座を取りに行くことはなく、ひたすら主を恐れていた。王になる意志を持っていたのか持っていなかったのか、それさえわからないほどに・・。
神様は、うんざりするほどの時をかけられた。ずっとダビデを御目を止めておられ、ダビデが壊れそうになったとき、ダビデの忍耐、信仰の限界を見定めて居られたように、そのすべての弱さの極限に王座に就かせられた。
だからダビデは知っていたと思う、自分の信仰が大した物ではないことも、自分の勇気が大した物ではないことも・・。そのことはなんと感謝な事だろう。
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