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石ころ

いちじくの実

 マタイの福音書
翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:19~22)

 マルコの福音書
翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)

聖書のこの箇所はとても不思議だった。
「季節ではなかった」とあるのに、イエスさまがかんしゃくを起こして木を枯らすの?
お弟子の質問も、イエスさまの答えもとんちんかん。弟子が聞くなら「なぜ今、木を枯らされるのですか?」だと思うし、イエスさまが突然「山に向かって『動いて海に入れ』といってもそのとりになります。」という言葉もなんだか突拍子もないと思った。


「季節ではなかった」という言葉からこのみことばを思い出した。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)
いつでもイエスさまの必要を満たしなさいという命令なのだろうか・・
イエスさまは「わたしの必要を満たさないと、このいちじくのようになる。」ではなくて、「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」とおっしゃった。

いつでもイエスさまの必要を満たしなさい。そのためにイエスさまの必要を祈り求めなさい、ということなのじゃないかなぁ・・、そうすればまるで、とても私たちには無理難題、突拍子もないように思えるようなことでも、信仰を持って疑うことがなければ、主の必要によってそれは与えられますなのかな・・

主の必要は何時か私たちにはわからないので、いつでも主の必要を祈り求めていなさい・・なんだ。
自分自身にがっかりすることがあったので、ああ、このことにも主の必要があったのだと思えた。
何でも備えて下さる主に、いつでも願い求め続けることはみこころ。そうすれば誰であっても主の空腹、必要を満たすことができるという約束。


 繰り返し読んでいるうちにしみじみ思った・・イエスさまはお腹を空かされたんだ・・。神の御子がのどが渇いたり、嵐の船で眠りこけたり、血のしずくのように汗をしたたらせて祈られたり・・、鞭打たれて痛み、あざけられはずかしめを受けられ、御父に捨てられ極限の孤独も味あわれた・・。

イエスさまは母のお乳を必要とされ、父の稼ぎによって養われることを選ばれた。そこまでの主のへりくだりは今も変わることがないのだろうか・・。
神がこれほどまでに弱い人となってくださって私たちは救われた。

 今日もいつものように火曜日の人と聖書を開いた。
終わったときに,
この平安はなにだろうと言われ「もし、あなたに助けてもらっていなかったら、私はもう死んでいたと思う。とても生きてはいけなかった。」
「今、聞き捨てならない間違いをしたよ。私じゃない。救って下さったのはイエスさまだよ。でも、私は用いられたことがすごく嬉しいよ。その気持ちもわかるでしょう。
だから、あなたも『私を用いて下さい。』とお祈りしてね。そうしたら、イエスさまが必要なときに用いて下さるから。これはすごく嬉しいことだから。」とお勧めした。
彼女はご自分が体験されたので、心から用いられたいと思っておられることが感じられた。主はきっと彼女をお用いになるだろう。

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コメント一覧

keiko
改めて、こんにちわ
http://blogs.yahoo.co.jp/komiza22
エシュコル様
自己紹介が遅れて申し訳ありません。

keikoは、もう一つブログを書いていて、そちらの名前は「アガペーライフ」http://blog.goo.ne.jp/agapelife/

2009年12月15日の、石ころ様のブログ「火曜日の交わりから  マタイの福音書16:21~28」 に2010年3月29日に、「アガペーライフ」の名前で初めてのコメントを投稿させていただきました。

まだブログについてよく知らなくて、書く内容もゴチャゴチャです。時々書いて、また消して書き直したり、休んだりと、一貫性のないブログです。
石ころ
不備ですみません
私自身よく分からずに使っていますので、何かとご不便おかけしています。
お許し下さい。
エシュコル
ン?
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
3月29日にコメント?
keikoサンのブログ見させていただきましたが、どこにも見当たらないのですが?

ムベサンへ
数字入力間違っていないのに、やり直しの時がありますね。何故なんでしょうね。
石ころ
皆様に感謝します
多くのことを教わりました。
自由に語らせて下さった主に感謝します。
keiko
http://blogs.yahoo.co.jp/komiza22
あっ!!
 今頃ですが、申し遅れましたが、
「keiko」とは、3月29日にコメントを入れさせていただきました「アガペーライフ」が別に書いているページです。
keikoって、どこの誰?どこから来たの?とお思いだったでしょうね。失礼しました。
電気屋です
Saltさんのあとの石ころさんのコメントで
今回の話を閉めるにはちょうどいいな、っと、思っていたのですが、
その後の話が残尿感(失礼)あるかんじでしたので、スッキリしたくコメントを、。
keikoさんDr、kさんはLukeさんの所にリンクあるお医者さんです。
原語の意味はとても参考になります。
しかし、言葉の意味には少しは幅もありますので、私は微妙な所はそのままにしています。
神様も、その人が御言葉をどの様にその人がとらえるかで、その人への、主の扱いも、だいたいそのように取り扱われるような、傾向を感じています。(ねじ曲げる者にはそのようにと、、)

Saltさんありがとうございます。
さすがですね。
でも、元祖ひねくれ者の私はここまであっさりと美味しい所を持って行かれると、「そのうち、ギャフンといわしてやろうか」と、思いそうですが、神の法則によりその場合、罠をしかけて、落ちるのは私となることは過去の経験で実証済みですので、
穏やかに~ありがと~ ニコ~

そして石ころさんことムベさん
とても良い場所をご提供下さり本当にありがとうございます。

一部文章に不適切な言葉も有ります。
石ころさんのご判断でアップなさるかお決め下さい。最後までご迷惑おかけいたします。
エシュコル
Dr.Kさん
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
blog.goo.ne.jp/doctor-mkみことばざんまい
keiko
石ころ様のページを感謝します
http://blogs.yahoo.co.jp/komiza22
エシュコル様、
Dr.kって???
そうですね。同じなのでしょうね。
私は悔い改めるのが遅いので、いつも主をお待たせしていますので、つい、いちじくの木にも「ならないように」と受け止めて、ちょっとでも悔い改めのための時間があったら・・・・とつい思ったのでした。聖書を自分に都合の良いような読み方をしてはいけませんね。すみません。

マルコの福音書では、ベタニヤからエルサレムに行く途中で一度イチジクの木にイエス様が声をかけられて、この木が枯れたのは、翌朝のことでしたから、すでに一日の悔い改めの時が与えられていたのでしょうね。

Salt様
山と海の話は、ひえっーそうだったの!!とびっくりしました。これまで、地震とか、埋め立てとか、とんちんかんなことを考えていました。
ルカ13章の実を結ばないいちじくは律法主義のユダヤ教! はい、ありがとうございました
エシュコル
Dr.kさんでは
http://hswofach-wtl.jugem.jp/
無いので分かりませんが・・・
>イエス様はいちじくの木に
「もういつまでも、ならないように」と言われたのであって、
「もういつまでも、なるな!!!」と言われたのではない。
いちじくは、「ならないように・・・・」と言われた瞬間に神様に逆らったので、「たちまち」木は枯れてしまったのでしょう。

これは同じ意味でしょう。ならないように、なるなも全く同じだと思います。
ただ悔い改めを求め続けている事には、違いないですよね。
石ころ
saltさん感謝します。
「キリストを待ちながら、イエスを拒むことによって、山(イスラエルの祝福)は、海(異邦人)へと移っていきます。イエスの怒りは正当であり、かつ、それは季節ではないという『人の意思が反映された』摂理の面もあります。」

ああ、そうだったのですか!すんなりと分かりました。礼拝以外でこのように導いて頂いてとても得をした気分です。
思いつくままに自由奔放に書いていても、あやまりのない導きを受けて行けるなんて・・なんと感謝なことでしょう。このように丁寧に教わるとわすれないでしょう。
ああ・・メッセージをちゃんと覚えなくて、すぐに忘れる事が多くて・・すみません。
Salt
http://web1.kcn.jp/salt/
盛り上がってますね。

こうしたみことばをめぐる考察は楽しいです。

各自が教えられたことを分かち合うのは、すばらしい礼拝であると思います。

私が教えられているところを少しだけ書かせていただきます。

この記事を正しく理解するためには、もうひとつのイチジクの話(ルカ13:6~9)と合わせて考える必要があると思います。

つまり、実を結ばないイチジクは、イエスのとりなしを受けつつ実を結ばないイスラエルです。

キリストを待ちながら、イエスを拒むことによって、山(イスラエルの祝福)は、海(異邦人)へと移っていきます。

イエスの怒りは正当であり、かつ、それは季節ではないという「人の意思が反映された」摂理の面もあります。

「エルサレムがこの日のうちに平和のことを知っていたら・・・」とイエスが嘆かれる場面がありますね。この日のうちにという嘆きは、イエスのまさに空腹のときに、イエスの腹を満たせない状態だということです。

信仰の実を結ばない葉ばかりのイチジクは律法主義のユダヤ教そのものです。

このユダヤ人の頑なさと拒絶によって十字架が成立するわけです。

こうした肉の支配する宗教を、現在の教会にあり方に適用することは聖書の教えるところから離れていないと思います。

電気屋です
Keikoさん調べていただきありがとうございます。
参考になりました。

アーモンドはりんごや梅と同じ薔薇科ですから、同じだと思います。花も似た感じのピンク系の花を咲かせます。ただアロンの杖は枝があったのか?それはわからないということですが、まあ半分はしゃれみたいな感じです。しつれいしました。 
keiko
実のつかないいちじくの木
http://blogs.yahoo.co.jp/komiza22
イチジクの木について調べてみました。
電気屋さんのおっしゃる通り、新しい枝に実がつくようですね。
http://www.sc-engei.co.jp/navi/mi_a3.html
実がならないいちじくについて書かれているページを見つけました。

ということは、剪定に失敗すると、季節になっても実がつかないことになりますね
むやみと剪定しすぎると花芽を落としてしまうことになりますね。
成長する先を見越した配慮のある剪定が必要となるのでしょう。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1913/itigiku/itigikusentei.htm
これはいちじくの剪定についてのページです

イエス様が満足される実とは何でしょうか?
おいしく食べられる実がつくことでしょうか?

実の中には種が入っています。その種がこぼれたときには、あるいは蒔かれたときには、ちゃんと発芽することのできる程に熟することでしょうか?

実とか、種とかについて考えることは重要なことなのでしょうね。
創世記1章11節から何度も書かれていますものね

アーモンドの木?・・・むーん どんなのでしょうか?
電気屋です
すこし補足させてください。
「枝は一度しか花を咲かせない。」
私は学者では無いので、私の知っている限りです。
梅、柿など果実は新しく伸びた枝から、咲いています。
たまに幹に花が付いている様に見えますが、小さな枝にやはり花が付いてます。
アロンのアーモンドの杖は良くわかりませんし、花咲爺は信じておりません。

続きまして
「主のギャラは天井無し」
仰る通り永遠の命は恵であって報酬ではありません。とにかくあの方は気前が良いです。ただ、ある方は「本当に神様は、最低の必用以外あたえてくれません。もうギリギリです。」と言う通りその方はいつもギリギリの生活です。まあこの世においての保証は「こじきする事がない」その程度かもしれませんから、私は一時的な繁栄より、天で永遠というなかで楽しみたいです。

話がながくなっておりますが、
最後に一つ
エシュコルさんがイチジクを「無花果」と書いてくださったことでのコメントです。
書いて字の様に無花果は花を咲かせません。内側に咲くので見ることはありません。神はおのおの種類ごとに種をつけるとあるので種はつけない事はありませんが、花は見ないときがあります。

花を咲かすって美しいですし、華やですし、人からの注目を最も浴びる時ですが、実をつける事こそ大切と再確認させていただきました。


石ころ
エシュコルさん
私はほとんど家庭に縛れていますから自由に動くことは出来ません。礼拝に行けるのが精一杯ですし、それで十分満足しています。
私たちは必ず御国でお会いする間柄だと思っていますから。私自信はそんなに遠くない未来ですし・・楽しみが増えるというものです。
この地上では、私には限られた語彙と不自由な言葉で、伝えることが難しくて・・御国での真の自由な交わりをとても期待しています。

「弟子達は現象面を疑問にし、ムベサンは疑問点を表明された事の違いだと思いますよ。」ああ、そうですね。
実を結ばせるのも主ですよね。
石ころ
電気屋さん
みことばに思いを巡らせるのは、迷路を抜ける楽しみのようです。迷路で行き倒れになる人は居ませんよね、主はちゃんと見守って「こりゃ駄目だ」と言うときには、必要な助けをいろいろな方々を通しても与えて下さいますから、そのようなお出会いも楽しくて感謝です。

「枝は一度しか花を咲かせない。」
そうなんですか、一生に一度のチャンスなんですね。主は忍耐強いお方なのですが、私たちの失った時も二度とは戻って来ないのですね。だから「目を覚ましている」ことが求められるのですね。

「主のギャラは天井無し」
そうですね。なにしろ永遠のいのちですから・・いや、これは何もしなくても信じただけですでに受けとっている・・これでは怠けてしまうのが普通・・なんてちょっと思いました。
それでも、私もイエスさまのドラマにはやはり出てみたいです。背景の片隅にでも・・それは、とても栄誉な事です。
石ころ
keikoさん
ああ、そうですね。
お弟子が悟るのは聖霊が与えられてからなのですね。イエスさまがお弟子に語られるお言葉が、時々ちぐはぐなのは後の日のための布石だったからなのですね。

死の間際の十字架の上であっても、悔い改めに遅すぎることはない、そのことは本当に感謝です。でも、イエスさまと共に歩む時間が多く欲しいですね。いや、失敗をしていても、間違いを犯していても主は共にいて下さっているのですね。
記事の転載はどうぞご自由になさって下さい。感謝します。
エシュコル
Saltさんと・・・
電気屋さんがせっかく奈良まで行かれ、御逢いしたのでしたからムベサンとも御逢いすれば良かったのにね。
弟子達は現象面を疑問にし、ムベサンは疑問点を表明された事の違いだと思いますよ。
無花果はユダヤ人を、今では教会、クリスチャンに対してですよね。実を結ばない者にならない様に気を付けたいものです。
電気屋です
言い訳から書き出させていただきます。
昨日は帰ってきたらめちゃめちゃ疲れてました。コメント明日にすれば良かったのですが、書いてしましました。
エラーは別にしてもう少し煮詰めて内容を吟味して出すべきだったかも知れません。

昨日杏の花を見て話していたのですが
「実がなるのは必ず新しい枝からだけ、古く大きく太い立派な枝からは花はさかせてないだろ」枝は一度しか花を咲かせない。

”神様の一人芝居”そうかもしれません。
そのように見えるでしょう。
それで良いのかもしれません。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」
此処には私たちが参加できる余地が無いように見えます。

しかし、神は共に参加して下さる方を求めていらっしゃいます。
それどころか、私たちを「あなたしかこれは出来ない、あなたがやってくれないなら完成しない」とキャスティングされ、粘り強く交渉なさっています。
そのギャラは天井無しで。
私は脇役でも、通行人でも道ばたの草や木や藁や石ころでもいい。
イエスが、主役のドラマを見るだけでなく出てみたいです。
keioです
いちじくの木
http://blogs.yahoo.co.jp/komiza22
石ころ様
私も、以前からこの箇所が不思議でした。
しかし、今朝石ころ様のブログを読んで新しい発想が与えられました。

その前日に、イエス様は、祭司長や律法学者たちに対して、既に旧約聖書に書かれていることを読まなかったかと言っておられます。

もうイエス様から直接話を聞けなくなる時間がせまっているこの時、イエス様の語る言葉は、誰に対する言葉であっても、最後の弟子訓練の時であったと思います。

いちじくが枯れたのも、一つの弟子訓練だと思うのです。
イエス様が求めておられた弟子たちの応答は、
驚くのではなくて、
旧約聖書ではどう書かれていたか、またこれまでイエス様はいちじくやぶどうの木についてどう話されていたか(神のさばき)を思い起こすことではなかったかと思うのです。

そして、イエスの復活後、聖霊が与えられそのことがはっきりと理解できる信仰があたえられた際には、もっと大きなことができる力があたえられるのです
と言っておられるように思います。

原語で調べてみました
21節のいちじくの木になされたようなことができるーーーのできるは ポイエオの未来形
そのとおりになりますーーーギノマイの未来形
でした。


イエス様はいちじくの木に
「もういつまでも、ならないように」と言われたのであって、
「もういつまでも、なるな!!!」と言われたのではない。
いちじくは、「ならないように・・・・」と言われた瞬間に神様に逆らったので、「たちまち」木は枯れてしまったのでしょう。

信仰の薄い私に、神様は
「もういつまでも、ならないように・・・・」と言われている間に、悔い改めて、すでにいっさいの罪を赦してくださっているイエス様に信頼して祈ろうと思います。

トラックバックというのをしたことがないのですが、この記事を私のブログに転載させていただいてもよいでしょうか?
石ころ
主の必要を私たちが求めるなんてちょっと変ですけれど、そのように手間をかけて、私たちを用いようとしてくださるのだと思います。
なんだか、神様の一人芝居のようですけれど・・この虫けらを相手にして・・
電気屋です
ごねんなさい。
かぜのささやきさんの旦那さんと間違えて書いてしまいました。
失礼をお詫びいたします。
電気屋です
この箇所は私も気になってました。
石ころさんの旦那さんに似てるって書いたのも、この所を考えていたからでした。
そうなんですよね。
おなかが好いていた。うんうん
ハングリーアングリーって言いますからね。
そして「時が良くても悪くても、、」そのとおりですね。
私の今のいただいている部分はこの前少しSaltさんにも話したのですが、
イチジクの木は教会で
エデンでは季節に関係なくいつでも実を付けていた様に、教会は時期に関係なく時が良くても悪くても、本当は実をつけるものであるはず。
園に木を植え、世話をする目的は一つです。
実を付けるためです。
イエスはこの世にあって空腹を覚えていらっしゃいます。
1年たっても、2年たっても肥やしをやって実をつけるはずの教会が葉っぱばっかり茂らせるだけ茂らせて実はない。
形だけで、何も無い
まさに、この世の教会の状態

正直、以前の私そのものです。
枯れに枯れた干からびた者をも
生き返らせる主の命にただ驚き、(なんで)感謝です。

このように遠くに離れていても
御言葉についてお話できますことありがとうございます。




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