「創造主を知らない報い」と題して、後山牧師がローマ書1:24~32から話してくださった。
私たちが神様の存在を知って居ながら、知らない振りをするそれが「不義」です。
不義によって暗くなった心は空しさを経験します。その空しさを認めて神様と向き合うことをせず、人は世の楽しみに流されて行きます。その中で、自分に都合のよい神を作りだして行くのです。
彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(ローマ1:21~24)
暗くなった心、見えなくなった目で無理やり作業をするような生き方によって、この世は「なぜこんな事が起こるのだろう」というようになってしまいました。目が見えず正しい選びができなくなったのです。
「此処で実験をします」
奥さんと男性信者さんを前に立たせご自分は目隠をして、「見えていれば妻を選ぶことができますが、見えないから間違えてしまうのです。」と男性信者さんにハグして、笑いを誘いながら説明をされた。
パウロがこのような世の闇を語る中で、
「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」この一節は、むしろない方が文章はつながります。文脈に合わず違和感を感じるのです。
しかし、これはパウロが不義と暗闇を語る中で、わき上がってきた信仰告白をせずには居られなかったのです。私たちもこのように信仰告白をすることは大切です。
闇に対抗できるのは光だけです。イエスさまを信じる意味や意義は大きいです。すり替えられたものを本来の姿に戻すことができるからです。不自然を自然に戻すことが出来るからです。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:4)
今朝、メッセージに思い巡らせていた。
同性愛をそのまま認めてしまう風潮の中で、私がどのように判断して良いのか戸惑いがあったが、誤りが何処から出ているのかが一目で教わった。問題は現象ではなくその起源にあること。造り主の神を神としないから、造られた自然が不自然なものにすり替わってしまったということが・・。
私たちは、世の事だけを話し続けることは苦しくなって行き詰まってしまう。
でも、その時にみことばを語り信仰告白が飛び出してくると、ほとんどの人は違和感を感じるのだ。
パウロの唐突に挟み込まれた信仰告白に違和感を感じたように・・。
「それを言わなければ良い人なのに・・」そんな空気を何度か味わっている。
それでも腹から、心からみことばが吹き出して来てすっかりその場を白けさせてしまったことなどを思い出した。
光を知って居る者としては、闇に耐えられなくなってかざす灯りである。世はその光を知らず、堅く閉ざされた目には見えないので見当外れのような違和感だけ残るのであろう。
みことばの光にいのちの希望を認識できるのは、キリストに目を開かれた者だけであるから。
ただキリスト者同士であっても、世の事に盛り上がっているときにみことばを語ると白けられることがある。光に照らされた時に、闇に迷い込んでいたことに気づいて恥じるからだろう・・。
「闇はこれに打ち勝たなかった。」祈りの希望は此処にある。恐れず、空気を読まず、何処ででも聖霊によってあふれ出るみことばを語っても良いのだ。そのことをメッセージを通して確認することができて感謝だった。
また、何時であってもキリスト者によってみことばが語られたとき、即座に「アーメン」と一緒に主をほめたたえる素直な霊を備えていたい。
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ムベ
電気屋
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