石ころ

1.99?タラント


 
 昔、体調が悪いのに台所でうろうろしていて、主人に「じっとしとけ!」って怒鳴られたことがあった。
習慣を切り替えることは病人になっても簡単ではない。体は動かなくなってもなんとか続けたいと焦ったりする。負い続けてきた役割を捨てる勇気がないからだ。
それが生きることの執着のようになって、時にはその頑張りがほめられたりすることもある。ほめるのは他人であるけれど・・。
主人にはほめることなどできない。愛している者は「そんなことをしなくても良い。必要なことはやるから任せて静かに休んでいろ。」と言いたいのだ。
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(ヘブル4:10)

 以前まこさんから頂いたコメントに、「主の平安を死守したい」と書かれていて、私は「ユニークな表現」とか書いたことがありそのことがずっと心に掛かっていた。

ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル4:11)


平安も安息もそれは「静」であると思っていたから、そのための努力やがんばるという「動」は、私には繋がらなかったのだ。
ヘブル書に「安息に入る努力」と書かれているのにも、不思議なことばと思えるのである。
私の安息は単純で、みことばに「アーメン」で終わり。その「アーメン」と言った後に何が起ころうとも、私はその現象を無視する。
ひょっとするとその「無視する」これが努力の一種なのかも・・と今気づいた。

でも、このスタンスは人間的には冷淡で、逃げで、盲目的な愚かさによることだから見栄えの良いものではない。
私には霊の事は単純だけれど、魂、体のことが難しいのだ。だからウロウロして叱られたりする。(もう叱る人はいないけれど・・。)
キリスト者でもそれぞれ賜物が違う、違っているから希望がある。だって皆金太郎飴のようだったら、その他大勢なんて要らないのだから・・。
聖書に5タラント、2タラント、1タラントって三種類だけれど、実際には4.999タラントとか1.09タラントとかキリスト者の数だけあるのだと思う・・

おなじみことばを読んでも一人ひとりに働く聖霊によって、皆が同じ事を知るのではない。それぞれに対する主のご計画が違っているのだから・・。
だから、自分の聞いたままに話される言葉を聞くとき、感動をして新しく主を知る喜びがあるのだ。だから、キリスト者を「キリストのからだ」各器官だと言われているだろう。


あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

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