石ころ

白い馬と赤い馬(黙示録6章)

 

いよいよ、大艱難期に入ることになる。真のキリスト者が艱難前に携挙されること願うけれど、正直に言って私にはまだわかっていない。たくさんのメッセージを聞いて、その時は納得しても自分の言葉になっていない。でも、遅くなること無く直接教えてくださることは知っている。

 

世には何時も艱難がある。しかし世界の人口の四分の一が死んでしまうという大患難時代を、キリストの警告として伝えなければならない。
それも永遠への避けがたい通過点であるなら、主のみこころによって一人でも多くの人が滅びから免れるために、世に起こる過酷な事実を書くことになる。

 

私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを私は聞いた。
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。(1~2)

 

キリストが封印の一つを解かれたとき、天使は一つの馬を呼び出した。その白い馬は、使命を果たすための武器を持ち神からの権威を与えられていた。その白い馬は「勝利の上にさらに勝利を得よう」と出て行ったが・・。

 

キリストはいつも完全である。キリストからたまわるものも完全であって完成されており、「さらに勝利を得よう」と付け加えるものはキリストの祝福ではない。まさしく蛇足であって汚れた蛇の足である。


特に、みことばに人間的な理解を付け加えて、飲み込みやすくすることは汚れである。みことばは聖霊により祈りのうちに解かれて行き、人がそれを知ることは神のわざでもあるのだから・・。

 

努力目標のような「もっともっと」は、不完全なものしか無い世では、良いことのように見えても、神の完全を知らず感謝の無い者の貪欲であって、そこには安息がなく世はいよいよ欲望に振り回されて、命をすり減らして行くようになる。

 

小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。
すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。(3~4)

 

白い馬がもたらせるものと、赤い馬がもたらせるものは関連して、ますます悪化して行くことがわかる。
貪欲は奪い合うことであり、競い会うことは蹴り落とすことでもある。その行き着く先は戦争であり民族紛争となり、世は乱れて地には平和がなくなる。満ち足りることを知らず飢餓状態となるからである。

 

赤い馬の持っている剣は世を滅ぼすための剣であるが、キリストが準備してくださったキリスト者の剣はみことばの剣であって、それは平和といのちをもたらせるものである。
今、伸ばされている時間に在るキリスト者は、みことばを残す必要がある。一人でも多く人が滅びの剣から逃れるための備えである。


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