石ころ

主にある者の自由(ダニエル3章)

 

ネブカドネツァル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に建てた。(1)

 

2章の終わりで王は神をほめたたえて、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は知者をつかさどる長官とされた。彼らは奴隷として連れて来られた国で安泰を得たかのようであったが、それは彼らの信仰が試されるための罠のようであった。

 

王は偶像を造って全ての人に拝むことを命じた。これはまさに人の世である。世の安泰はいつ反転するか分からない。世を支配しているのは、永遠に変わることの無い神ではないからである。
王は一時は神をほめたたえたが彼の信仰とはならず、すぐに忘れ去って偶像を作り自分自身を神とした。

 

「ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれる。」
それで、すべての民が角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民族、諸国民、諸言語の者たちは、ひれ伏して、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝んだ。(6~7)

 

像を拝まないシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴたちは捕らえられて「どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだうか」という王の言葉を聞いて、彼らの口から出た言葉は、

 

もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。
しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」(17~18)

 

彼らは自分たちの知っている神を王に伝えた。それに付け加えた言葉は王に挑戦しているようであるが、神には「みこころのままになりますように」という告白のようでもある。

私たちの信じたことがみこころと違っているとしても、神に対する信頼は少しも変わることがないという告白である。それは王に向かって話しているだけではなく、危急の際で神に命を捧げる無垢な祈りのようである。

 

この三人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ちて行った。
そのとき、ネブカドネツァル王は驚いて急に立ち上がり、顧問たちに尋ねた。「われわれは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えた。「王様、そのとおりでございます。」
すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」(23~25)

 

王は燃える炉の中に彼らと共に居られるキリストを見たのだ。王の言葉に対してこれ以上の神の証しは無い。王が炉から出した三人は衣さえ無傷であった。

 

ネブカドネツァルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、このしもべたちを救い出された。王の命令に背いて、自分たちのからだを差し出しても神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこの者たちを。(28)

 

王は彼らを通して真の神の御わざを見たが、確かな信仰に至ることはなかった。支配者という自由の中で、彼が自分自身を捧げて神に従順することはなかった。
人は奇跡を見ても、サタンが働く世の良いこと悪いことの中で、みことばに根ざしていない記憶は抜け落ちて行く。

 

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は奴隷という立場に在って、神を信じる信仰のゆえに死以外に一切の自由の無い中で、灼熱の火を通っても衣の端さえ燃えることのない、信仰の自由を経験したのである。


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