「繊細で純粋で社会に適応できない人が自殺に追い込まれるような気がしました。」
でもね、その一方でプライドが高くて、強情で、くずおれることが出来ない人・・そんな気がします。
よく言うでしょう「命まで取られることはない」って・・そんなことに対して、命まで差しだしているのではないかと思うのです。
私も大切な人をそういう死に方で亡くしました。悔しくて残念で、悲しみよりも怒りを覚えます。
死ぬ直前まで良いことばかり言って、泣きつくことなく死んでしまったのです。
それでも、神様の許しなしには死ぬことはないのですが・・その死には神様の許可が下りたのでしょう。人の強情さにお手上げという形だと思いますが・・。
死ぬほどのことがあっても、その人は救い主を求めようとはしなかったのです。
私の本当の悔しさ、悲しさはそこにあります。
でも、神様は人を造られたときに、救い主を否定して、勝手に死ぬ自由さえもお与えになったのです。
だからこそ、その自由の中でイエスさまを選び取ることの価値は大きいのです。
このことはとても厳粛なことなので、彼の死を受け入れ、私は神様の前に伏しました。すべての死を受け入れるのは、神の御前にひれ伏すことによると思います。命の造り主である真の神様の前にひれ伏す時に、残された者に平安が与えられます。これは事実です。
私たちクリスチャンの故郷は天にあります。だからこの世では旅人です。
この旅には様々な出来事があり、家族を愛し、育て、友と喜びや悲しみを共にしながら、懸命に旅をするのですが、一番大切なことは故郷にちゃんと戻ることです。
それはこの世でのすべてに優先します。だから、この世のできごとのすべてに私は一定の距離を置いています。決してこの世がすべてのようには生きません。
そのとき、何処までこの世に順応するのかという中で、自分の中にある大切なものを揺れることなく優先しますから、旅路は自ずと真っ直ぐになり、侮られ、非難され、傷を受けるようなことがあっても、決していのちを脅かすようなことはありません。
その痛みを雄々しく受けてくださって、神様のみこころどおりに生き、そうして死なれたイエスさまというモデルがあるからですが・・。
すべての人の罪を負って、侮られ嘲られて理不尽な無実の罪で死んで下さったイエスさまは、私たちのすべての苦痛を誰よりもよく知っていて下さるのですもの。
生きることは大切ですが、命をどのように生かすかということはもっと大切です。
今のこの命は、イエスさまが十字架でいのちをかけて準備して下さった、永遠を選び取ることができる、唯一かけがえのないチャンスなのです。
死んでからできる事は何もありません。その人は造り主に反抗して永遠に滅びたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書
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