石ころ

主の質問


 

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。(ルカ24:13~17)


すべてをご存じのイエスさまはよく質問をされる。
「わたしに何をしてほしいのか。」と、盲人にもわかりきった質問されたことがある。
私たちは質問に対して答える。自分の見たこと、聞いたこと、学んだこと、経験したこと、願っていることなど・・。

イエスさまは人の願いを、時は拒絶をもって時間を掛けて矯正し、相応しい願いにはその何倍も与えようと導いてくださる。主は押しつけたり脅したりしてご計画を成そうとはされない。
それは世の宗教とは真逆である。世のものは脅したり騙したりすることで支配している。
しかし今、イエスさまに「何を求めているのか」と問われて、即座に出てくる言葉は何だろう・・。


 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:19~24)


彼らは自分の知りうること、気落ちしている現状を語った。
エマオの田舎からエルサレムへ出て来てイエスという力ある預言者に出会い、弟子にしてもらって大きな夢に胸を膨らませてきただろう・・。
しかし師と仰ぐ方が、おめおめと処刑された十字架のショックは願いのすべてを潰した。せめてもの墓さえも空となってしまったことで、彼らは途方に暮れてエマオというぬるま湯のような田舎に戻り、これからはエルサレムの思い出を気の合う二人で議論して過ごそうとしたのであろう。


するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。(ルカ24:25)

 私には幾分自虐的な所もあるけれど、そういう意味ではなくイエスさまに叱られることは嬉しいのである。
ペテロのように海を歩いて沈みかけても「不信仰な人だ」という声より先に、御手を差し出し引き上げてくださる方と知って居るので、そんなやらせを体験できたら他には何も要らないほど嬉しのだ。御手の温度は触れないとわからないから!

彼らは道々語られる聖書の言葉を聞き続ける。しかし彼らはそこで「わかりました」などと言わなかった。彼らには満たされるまで聞き続けたい渇きがあったのだ。
イエスさまがわざわざ彼らに会いに来てくださったのは、その渇きを惜しんでくださったからである。その求めに応じてくださるためである。

それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24:29~31)


みことばは聞くだけではわからない。それは消えてゆくものだからである。書き留めても覚えても指先から落ちて行く砂のように形を残さないものだからである。
イエスさまから生きて働くためのみことばのパンを受け取る必要があるのだ。何時までも手元に残るいのちのパンが必要なのだ。
御わざを見たいのだ。体にも心にも主のものであるという確かな焼き印を押してもらうことを求めているのだ。

イエスさまの御手からパンを受け取ること、私に対して直接手渡ししてくださるみことばは、霊の宝物庫に治めておいても忘れることも消えて行くこともない。何時でも自由に取り出して用いることができるものになるから。

(それにしても、ユダはイエスさまの御手からパンを受け取って闇に去って行った。その罪はどれほどなのか・・なんと憐れなことだろう。)

イエスからパンを受け取った後、「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻った」とある。
彼らは田舎の温もりではなく、主に火を付けられたいのちに燃えてエルサレムに戻って行った。
在るべき場所で、与えられたタラントの働きを成すために・・。

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