石ころ

まず直接聞く (ヨハネ7章)





「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである」(ヨハネ7:1)

 キリスト・イエスから時にこぼれる人の感情、思いを聖書に見ることがある。イエス様が完全な人として、魂の働きももっておられたと言うことだと思う。
イエス様と最も近いはずの兄弟たちもキリストと認めず、からかうように「出て行って、自分を世に現せば・・」と言っている。
イエス・キリストは孤独であった・・。

そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。(ヨハネ7:6)
イエス様の十字架の時はまだ先であったが、兄弟たちにイエス様を知る時は来ていたように、私たちにもイエス様を知るのは今がその時である。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネ7:7)

世は世のものでないものを憎むから、人が神のものとなった時もそれは起こる。それはイエス様に似てその行いによって世の罪を暴露するからである。
ユダヤ人を恐れて人々はひそひそとイエス様を語る。しかし、主は大声で御父との関係を証された。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(ヨハネ7:17)

聖書を、「行いという覚悟」を持って開くなら、誰でも神のみこころを知ることができる。
それが真実であるかどうかは、動機が神の栄光を求めて居るかどうかでわかる。そうして、その人には不正がないといわれる。

「安息日を守れ」というモーセの律法を守るために、御子を殺して「殺すな」という律法を破ろうとする愚かさ。
安息日に「生かす」神のわざが受け入れられず、神に遣わされた救い主を「殺す」のである。
それによって彼らが、律法を神の栄光を現すものとして守るのではなく、自分たちの栄光のためであったことがわかる。

イエス様は「わたしは父を知っている」と叫ばれる。イエス様のことばを「あの人が言ったことばはどういう意味だろう」と思い巡らし、主を知ろうとした人々には、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)


人はすべて断片によって自分の頭で判断しようとする。
否定する人は聖書の「メシアはベツレヘムから出ると書いてある」という断片をもって否定し、律法を知らないことでわざによって信じようとする人がある。
いずれも完全ではない。聖霊によらなければ誰もイエスを主と呼ぶことは出来ないからである

まことに、今は「恵みの日」である。聖霊はみことばを解き明かし、みことばに信頼する時、みわざによって主を体験することができる。それを繋いで主は御真実と確信させてくださる。
だから、目を開けていなさいといわれる。それはみことばに対してみわざに対して・・。

 律法を知らない者はのろいの中にあり、律法を自分のために利用する者は永遠ののろいの中にある。
知らなかった者はイエス様に出会うことにより救われるが、自分の為に律法を守る者はイエス様を殺すからである。

「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」(ヨハネ7:51)
「まず、イエス様に聞きなさい。」私たちの伝道もこのように勧めるのだ。しかし、このとき人々は家に帰り、ニコデモのようにイエス様のもとに行かなかった。

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