わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(ヨハネ6:51.56.60)
人間は共食いはしない。しかしイエスさまはその内実を揺さぶられる。絶えず訴え合う心の本性は共食いの性質である。
キリスト者であっても、口で祝福した次の瞬間に心で呪ってしまう罪を持っている。人は悪行を責められるよりも、自分の善行がふるいにかけられることに怒る。自身のモラルが否定されることを受け入れ難いのは、それに拠って立っているからである。
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:56~57)
建前のようなプライドを捨てて、みことばであるイエスの肉を食べ、十字架のあがないの血を飲むなら、訴えるサタンであるこの世の王の支配は受けない。
その霊はキリストを宿し、キリストの中に在って、何とも比べられることのない完全な平安の実を結ぶことができるのだ。
私に関しては、罪は完全にあがなわれて神の子とされている。そのしるしは信仰生活の備えとしてたまわった、炎に焼き尽くす聖霊のバプテスマであった。
そのしるしは他人に向かって説得するためのものではなく、自分自身にイエス・キリストの救いの確信と、訴えるものからの守りとして、平安を与えるためのものであった。
すべての人の始めに、主がエデンの園で計画してくださったことである。
罪の深さを知った分量だけ、十字架の赦しがどれほど完全であるかを経験する。キリストの十字架に安息する時、みことばによる新しい生き方が与えられて、罪の解放による喜びはみことばに聴き従う者とされる。神の御愛の深さを知ったからである。
カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。
ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」
主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。(創世記4:13~15)
人類最初の殺人者カインは、主の権威によって生かされ彼の子孫も生かされた。主は、罪を知った人が塵にすぎないことをご存じだからである。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:60~63)
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