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石ころ

昼の間に

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。」
人は誰もみな生まれつき霊の盲人。ただ自分で私は見えると言い張っているけれど・・。

イエスさまの一方的な憐れみに与った者は、お言葉の権威によって仰せのままにシロアムに歩いて行く。それは信仰というよりも、それ以外に生きる方法をもたない者が選ばれているから。

パリサイ人たちの前で取り繕う言葉を、愚かさのゆえに持っていなかったから、何時でもありのままに語るしかなかった。その言葉が彼らを苛立たせていることを知っていても・・。主に出会ったという圧倒的な事実によって、ぐいぐいと問題の渦中に巻き込まれて行く。

主を語っているうちに、パリサイ人の頑なな心に対して抵抗も増していった。なぜ、通じないのか、なぜ彼らは知ろうとしないのか、なぜ彼らはいつも決まり切った言葉を求めているのかと・・。

語る度に育てられて、その言葉も明確になり
「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちに教えるのか。」
と罵られるようになったけれど、教えているのは彼ではなく主の愛。

彼がこの世から追放されたときに、イエスさまは再び来て下さった。もっと確かに主を知ることを導き、この世には枕するところもない身となったけれど、永遠の住み家を頂いた。

主を語ると、時にこの世に居場所を失うことを人々は知っているから、主が「良くなりたいか」と聞かれたなら、「今は、畑を買ったから・・」とか、「牛をk買ったから・・」などとこの世の用事の中に逃げて行く。

それは主を一番とはしていないから、二番目に回すのだけれど、二番目なんてもう永遠に来ないかも知れない。
だって、主がいのちをかけて勝ち取ってくださったいのちなのだから、当然受ける者もこの世のいのちを捨てて受けるもの。

でも、主は殺す主ではなく生かす主。主にあって真に生きることが出来るのだから恐れないで・・。
その道筋は肉の目には見えないけれど、霊の目には一足毎に見えるようになる。
主の事実を与えられる言葉で語りつつ・・自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って行こう光のうちに・・。


「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)

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