石ころ

埋葬の準備(マルコ14章)




さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。(マルコ14:1)


 エジプトの奴隷から解放された記念の祭りを前にして、宗教者がイエスを殺すことをけんめいに計っていた。イエスさまが、彼らの言い伝えによる縛りから民衆を解放しようとされたからである。

「安息日」の律法を守るために「殺す」という律法を犯す矛盾である。直接手を下さないというやり繰で誤魔化せると、彼らは神を量ったのである。
律法に言い伝え山ほど付け加えて、人に押しつけ支配することができるのは、彼らが神を恐れることを知らないからである。人はいろんなことに懸命な努力をする。それが祈りとみことばに拠らずに、自己中心から出たものなら内容に拠らず罪である。

 ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。(マルコ14:3~5)


迫って来る殺意の中で、彼女の捧げものはどれほどイエスさまを力づけたことだろう。
どんな方法であろうと、自分のものを主に捧げて責められるいわれは何処にもない。肉が霊による行いを責めるものは、理解出来ないからである。神と人を同時に喜ばせることは出来ない。霊に拠るすべては人には愚かでムダとしか映らないから。

神はひとり子をたまわるほどの愛の方である。ヒューマニズムはその神さまから発したなら聖いものとなる。順序は大切である。

すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:6.8~9)

マリヤは霊の導きに拠って、心になんの混じりけもない香油をイエスさまに捧げた。主の必要は霊に拠ってのみ知ることができる。霊のことは霊にしかわからない。
イエスさまはマリヤを弁護し、いつまでも残る記念としてくださった。それが神への捧げものの行方である。世に捧げたものは消費されてしまうが、主への捧げものは何時までも残る。

的を射た捧げものは神から発したことの証明である。二度と同じチャンスは巡ってこないから、そのために目を覚ましていなさいといわれる。いつもみことばを聴く者だけがイエスさまの空腹を知り、葬りの時を悟るのある。

このことは十字架から埋葬への始まりとなった。それが人の愛から始まったことは、どれほどイエスさまをお慰めしたことだろう。
今、主はいつも共にいてくださる。しかし、世の時は激しく流れている。油断無くみことばを聴いていないと、栄光の一瞬を逃して的外れになるのだ。
それこそムダであり、人の熱心から出たものは「しりぞけサタン」と言われるものとなる。

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