石ころ

あらゆる教えからの守り(Ⅱテサロニケ2章)

 

さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。
霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(1~2)


キリストにとどまっていることは、使徒たちが初めから教え続けている。聖霊の導きの中に居て、内なるキリストに聴き続けてこそ守られるのである。
霊には悪霊もあり、それをキリストの霊によって見分けるために、常にみことばと祈りに拠らなければならない。


あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:22)


教えの風に吹き舞わされたり噂に振り回されるのは、みことばの備えによる平安を持っていないからであり、それはキリストのうちに留まっていない結果であって、日々に主の交わりを経験していないからである。


だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。(3~4)


滅びの子、反キリストの現れの悪い時から守られるために、すでにキリストに身を避けている私たちは、どのような状況においても、あらかじめの守りに置かれている。だから、キリスト者の備えはすでに完璧なのである。それは今日キリストと共に居ることである。


ただ、その日は必ず来ることを告げ知らせる勤めを、キリストのからだは今日負っている。
キリストの十字架の御救いに与った者は、高みの見物をする者ではなく、みこころをそれぞれの置かれた所で、聖霊に導かれるままに行う。
この働きをたまわることは、世で持っているすべてを引き替えにしても、滅び行く者を永遠に繋ぐという光栄な働きであって、それこそ使徒たちに倣うキリストの弟子である。


だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。(Ⅱヨハネ1:9)


賢い言葉は世に溢れているが、それらが時と共に変節して行くのは、永遠に耐える根拠を持たないからである。
キリストの十字架は、死と復活を経て今も生きていることばである。その生けることばである御父と御子を、信仰者は霊の中に持っているのだ。しかしそれは今日、みことばに在ることに拠る事実である。


見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。(ローマ11:22)

 


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事