石ころ

誓願のための捧げもの ②(レビ記27 章)

 

家を聖別した人がそれを買い戻したい場合は、評価額に五分の一を加えれば、それは彼のものとなる。(15)

 

二割の余地、それは引き返すことを許す主とのコミュニケーションの備えのよう・・。人の判断は揺らぐものであり、「間違ってしまった」と悔やむことがあるから、人の心をご存じの主は、後悔が残らないように取り戻す余地を残された。

 

アナニヤとサッピラの罪は、主に信頼して自分の真実を話さなかったことである。「本当は信じ切ることが出来なくて、自分のために取り置きました。私の不信仰をお赦しください。」と使徒の前で告白すれば、彼らは死ぬことはなく、責められることもなかったであろう。
そのとき、聖霊を偽る罪を犯さずにすんだのだから。

 

ただし、家畜の初子は主のものである。初子として生まれたのだから、だれもこれを聖別することはできない。牛であれ羊であれ、それは主のものである。(26)

 

アベルはこの命令を聞くことなく、主のものを御前に持って来た。それは、ずばりとみこころを射る霊的な捧げものである。
主は肥えた羊を評価されたのではなく、アベルが主を知っていたことを評価されたのである。

アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。(創4:4)

 

ただし、人であれ家畜であれ、自分の所有の畑であれ、自分の持っているすべてのもののうちで、主に対して聖絶したものは、何であろうとそれを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶の物は最も聖なるものであり、主のものである。(28)

 

捧げたものは自分の好きなようには出来ない。献金も捧げた者が用い方に口出しすることは間違っている。それはすでに神のものだからである。主に祈ることによってのみ、間違いと思われることが正されるように願うだけである。それによって、完全な捧げものとするためである。

 

 キリストの御救いに与ったなら、自分の進む道は捧げものとなる。生きることも死ぬことも御霊の導きによる、みことばが先立つ道である。否むことが出来ないのは、ただ、主により頼んで生きているからであり、主の祝福に在って、キリスト者は主のものだからである。

 

人であって、聖絶された者はみな、贖われることがない。その人は必ず殺されなければならない。(29)

 

此処では死刑を言い渡された者を、人が贖うことはできないということであろうが、なんと、神は罪のゆえに死刑に定められている人類を、キリストの十字架によって、罪による永遠の滅びから救い出してくださったのである。
それは、人には完全な従順が不可能ゆえに、神がしてくださったことである。

 

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。(マタイ12:32)

 

聖霊は、キリストの死と復活、昇天によって、イエスの御約束の通りにキリスト者の霊の内に来て住んでいてくださる。
この方は世の初めからおられる三位一体の神である。私たちのすべてを知って居られ、この方に隠れていることは何もない。
キリスト者にとってこれほどの平安が他にあるだろうか。すべては、キリストの十字架のあがないの完全に拠ってたまわった恵みである。

 

地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。
しかし、もしも人がその十分の一の一部を買い戻したいのであれば、それにその五分の一を加える。(30~31)

 

もともとすべてのものは創造主のものである。人は十分の九の権利を神からたまわったのである。
主のものを主に開け渡す時、人は本当の自由を得る。

もし必要があれば買い戻す手段も残してくださったのは、神は私たちと話し合うことを喜ばれ、その余地を備えていてくださるのだ。神は捧げ物を見ておられるのではなく、私たちの心を見ておられるからである。

 

牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を通る十番目ごとのものが主の聖なるものとなる。
その良し悪しを見てはならない。また、それを取り替えてはならない。もしも、それを取り替えることがあれば、それも代わりのものも、ともに聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。(32~33)

 

人は、アベルの捧げものを備えることが出来るほどには主を知ることがなく、まだ肉を着ている身はカインのようにもなることがあり、主はカインの過ちを犯さないようにと、予め警告と守りのための方法を備えられた。信仰の葛藤をしなくてもよいように・・。

 

捧げものには色々あるが、主との大切なコミュニケーション手段なのである。そう、愛の告白でもあり、キリストをどのように量っているかということでもある。

 

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(Ⅱコリント9:7)


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