一度死んで、そのことは日常になり、ことさら自分が死んでいるのか居ないのかなんて、あまり考えもしなくなった。
でも、十字架の死を経験して居ないときは、もっぱらこの世のことばかり考えていた。
死んだ時は何も出来なくなり、そして、
イエスさまと共に蘇らされた時から、イエスさまのことを思うと平安が来て、イエスさまのことを話したくなり、みこころのままに生きたくなった。
でも、これらのことのイニシアチブは主にあるように思えてならない。自分の信仰というものが、本当に頼りないものであることに気づいているので、聖霊の助けの中でこそ守られているものなら、やはり、「すべてのことは神から発し・・」なんだと・・。
と、すれば私由来のものは何だろう、唯一それは「必要」なんだと思う。イエスさまがどうしても必要だったから、そこから主の私に対するご計画は始まったのだと思う。主はいつも主を必要とするものにこそ来てくださる御方だから。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)
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