石ころ

再臨を信じた者たちの感嘆(Ⅱテサロニケ1章)

 

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。(7)


そのことがあまりに浮世離れしているゆえに、もし、人の賢さによって判断するなら、語るべきではないみことばということになろう。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)


十字架の救いの言葉である福音は、人の賢さにはつまずきとなると書かれてあるが、それゆえにみことばを割り引くなら、それはすべて汚れた言葉となる。そこに不信仰がべったり貼り付いているからである。
信仰によって真っ直ぐに語る時、聖霊の臨在による主のお働きを見ることができるのである。イエスを主と呼ぶことは聖霊の働きによるのである。


そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(8~9)


主の再臨の日までに、人は皆イエス・キリストの御名を知るようになるからである。知ることに在るのは選択の責任である。
それは救いの備えがあってのことであり、真実な神による愛の十字架、滅びからの脱出の道が用意されてのことである。誰でもただ、イエスさまを求める信仰よって救われるからである。


その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。(10)


再臨の日にイエスさまをほめたたえ、感嘆の声を上げるのは再臨を信じていた者たちであり、みことばをそのままに信じた者のみが喜ぶ、再臨を待ち望んでいた者の感嘆である。


そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。(11)


祈りはその日のためであり、一人でも多くの人と共に主を喜び迎えるための伝道である。また、その信仰生活が守られ、みことばの従順に留まり成長して行く中で、みことばの成就という最善を求め続けて祈るのである。


それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(12)

 


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