そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)
何年も遊んで暮らせるほどのものを溜め込んでも、命は神さまから一日分ずつたまわるものであり、衣食住の心配がなくなることで、命の心配がなくなると思うのは勘違いである。この勘違いによって、人は大切な時間を費やしてしまう。
それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(ルカ12:22~23)
このことは弟子に話されている。世の欲から聖別されて平安を得るために、主の備えのを確信する必要があるのだ。
烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。
ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。(ルカ12:24.27)
ゆりの花は美しいけれど、人は王宮の衣の豪華さに価値を見るだろう。それは人を威圧してひれ伏させるけれど、ゆりの花にひれ伏す者などいない。
ただ、花は神の養いによる命によって存在している。着物はどれほど豪華であっても朽ちて行く物であり、人の栄華も同じである。
しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:28.31)
一時の花にさえある神の備え、まして弟子には御国の永遠のいのちの約束がある者。そのことを自分のこととして受け取るなら、世に振り回されることなどないのだ。
何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。(ルカ12:31)
神の国を求めることが、すべてを与えられる条件である。しかし、「求める」という内容に対して、「・・を行うことによって」「・・という資格によって」等という条件は付けられていない。
ただ、「いま持っているものを神の前に置いて・・」ということである。
神さまは心を知っていてくださるのだから、このままこの身に神の国を求めて良いのだ。
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ムベ
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