石ころ

ベテスダの池にて (ヨハネ5章)





イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」(ヨハネ5:6)

38年も病んで多くの病人と共に池のほとりで伏せって居る男に、イエス様が言葉をかけてくださった。
彼がもっとも「長い間」だったからなのだろう・・。

彼は、水がかき回されたときに一番に入った人は癒されるが、「私にはそれを助けてくれる人がないのです」と答える。
彼は「一番に入れるように助けてください」と言いたかったのだろう。彼が求め続けて来たことはそのことであったから・・。

「よくなりたい」という答えは手段を選ばないけれど、彼の答えには38年間見続けてきたことの縛りがある。彼にはそれが唯一であった。
彼は問うた方がどなたかを知らなかったから・・それはもっともかも知れないけれど、


 今、私たちは主のみわざを知っていると言いながら、的外れに自分の知識や願望を告げて、真っ直ぐには話していないことがあると気付かされた。
それは世で見聞きしてきた経験や知識が縛りとなって、新しく主を知ることを妨げているのだと・・。

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。(ヨハネ5;8~9)


イエス様のお言葉はあまりにシンプル。そう、主の癒しはどこまでも一方的な恵みだから、どんな時も無条件。
彼はすぐに床を取り上げて歩き出した!38年間寝ていた人が床を畳んで歩き出す。その力、その行動力は一方的な主の憐れみによる備えであって、彼から出たものではない。
彼はイエスさまを知らないのだ。私たちもみなこのように救われたのだ。

そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」
しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」(ヨハネ5:10~11)


体験は大切である。彼は誰の指示に従うべきかを即座に知ることができたのだから・・。再びイエス様がみ声をかけてくださったことで、彼は癒してくださった方を知った。
癒しは大切であるが癒し主を知ることの方がもっと大切である。人は幾度癒されてもまた病み、幾度赦しを受けてもまた罪を犯す生きものだ。
イエス様は人の必要をご存じだから、再び彼に来てくださった。

その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)

私には「もう、わたしを離れてはいけません。」そのように聞こえる。永遠へと続く関係のなかで、絶えざる赦しと絶えざる癒しの主の内にいることこそ完全なのだから・・。

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