幼子は幼いほどその探求心が強くて、知りたいものは掴んで放さず、小さな指も唇も舌まで全身を使って知ろうとする。何度も何度も繰り返して誰に教えられても止めず、自分自身で納得できるまで知ろうとする。
また「どうして・・どうして・・」と自分の頭で理解できるまで尋ね続け、うるさがられてもしつこいと叱られても、飽きらめることなく誰彼に質問してやめない。
幼子は可愛いだけの者ではない。うるさいのだ。いつも渇いているのだ。しかし、大人はそれを自分と同じように、ほどほどに、適当に生きることを教えてしまうのだけれど・・。
主は、そんなふうにうるさがられることはない。イエスさまは求めて止めないうるさい者に対してとても親切であった。癒しを求める盲人の声に、群がる幼子に・・。
「叩きなさい。」「求めなさい。」とうるさく求める者を歓迎してくださる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示録3:15~16)
十字架のことばに対してはおさなごの求めと探求心、渇きを持っているのがキリスト者である。「主を知りたい」その欲求が完全に満たされることはない。だから求めて叩き続ける。
今日、主に出会うことがなければ今日賛美できない。今日、主の喜びを味わうことがなければ今日感謝出来ない。だから何時も渇いて主に叫んでいる。
オギャア・・オギャア・・と可愛くもない年寄りが幼子のようにうるさく。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(ルカ10:21)
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並木孝之
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