石ころ

ただ主に拠って (使徒9章)




 パウロは主の弟子への殺意に燃えて・・とある。彼はイエスの弟子への迫害を強めようと権威をもらってダマスコに向かっていた。

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:3~5)


彼は目が見えなくなり自分では何も出来なくなって、人々にダマスコに連れて行ってもらった。
その、迫害者パウロの所へ来て目を開いたのが主の弟子アナニヤであった。彼は主に命じられたとおりにパウロを癒したのだった。

このパウロは弟子たちの誰でもが知っている敵であった。多くの弟子が彼によって迫害されて来た。
アナニヤは主の命令の故に、それらの事実と、それに伴う感情、恐れのすべてを捨てた。この時彼は自分の判断を一切差し挟むことをしなかったのだ。これが「従順」である。

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。(使徒9:18~20)

 パウロはキリストを知った時、それまで、良いと思っていたすべてを塵芥と捨てた。彼は自分の生まれのことをピリピ3:5で述べているが、それは事実を言っているだけであって、彼が依り頼み続けているものではない。なせなら、この時まったく新しくされたからである。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
これが「悔い改め」、これが悔い改めの実である。

 エルサレムで主の弟子たちは、当然のことながらパウロを恐れて受け入れなかった。この時バルナバが彼を紹介して執り成し、それによってパウロは自由な宣教活動ができるようになった。パウロの力が発揮できたのはこの「執り成し」あってのことである。兄弟たちの助けも彼には必要であった。

ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。
それからサウロは、エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいりし、主の御名によって大胆に語った。(使徒9:27~28)


先人達の従順、悔い改め、執り成しそのどれがなくても、今私がキリストを知ることがなかったのだと思う・・。
その時、アナニヤもパウロもバルナバも、組織や兄弟に相談することはなく、ただひとりで主に従ってくださったのだ。
信仰はひとり一人の「私」が主に在って選び取ることであって、その結果が主のご計画を実現して行くのだ。先人の真摯な信仰によって御救いに与った者として、近しく感じさせて頂き深く感謝した。

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