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石ころ

クリスマスのために

 
 マリヤは、突然現れた御使いガブリエルに「あなたは男の子を産む」と言われました。婚約者が居る、処女の乙女にとってそれはとんでもないことです。でも、婚約者に相談をする間もなくマリヤはそのことばを受け入れました。

それは、マリヤの「神にとって不可能なことは一つもありません」という信仰によったのです。
しかし、みことばを適用するときその後の覚悟を必要とします。それは、完全に神様に委ねて、自分のための計画を放棄する覚悟です。

 私たちが神様に用いられるときはいつも突然であり、一人で結論を出さなければなりません。
そして、結果を一人で負う覚悟もします。事実は主が共に負って下さるという、もっとも安全な歩みとなるのですが・・。そのことは後にならないとわからないのです。

マリヤには、不倫のそしりを受ける覚悟はあったのでしょうか?
それは、この時代には石打の刑で殺されてもしかたのない恐ろしい罰です。また、ヨセフの誤解を招いて愛する人を失う覚悟も必要でした。

聖書はそんなマリヤの逡巡を書いては居ませんし、そんな間も与えられてはない様子です。アブラハムもイサクを捧げる時に逡巡している様子はなく、次の朝早くにそのことを実行しています。そのことが、聖書をとても清いものにしています。そこに人間の考える暇がないことが聖さだと思います。

 信仰というレースを走っている者には、そのレースを外れて考えると言うことはできないのでしょう。そのことによって、初めて人が神様に従うという信仰が守られるのです。
従うこと以外にできないのです。信仰は時に家族をも巻き込みます。なぜなら、神様は家族ぐるみ祝福されるからです。

その家庭という箱船に乗っている者は皆救われるのです。だから、家族は良いことにも悪いことにもすべてのことに巻き込まれます。それでも、家族を巻き込んで従って行く以外にないのです。
アブラハムがイサクの了解を取ることはできないのです。それが信仰なのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言われた言葉はそういうことなのです。家族を巻き込む信仰でないと家族が救われることはないのです。

 信仰生活の小さな日々の中にも、このような選びの時がちりばめられているのだと思います。その、我を忘れて神様のレースを駆けるとき、私たちもご計画を成就する者として用いて頂けるのでしょう。

人はなんのために生まれてきて、何のために生きるのでしょうか。
それはもちろん、造り主なる神様のご計画を成就するためです。
救い主イエスさまが、私たちのところに来てくださったのは何のためでしょうか。

私たちが、御子の十字架によって罪をあがなわれ、清い者とされて、神との関係が回復された時、見えなかった霊の目が開かれ、造り主を「アバ、父」と呼びます。
霊の目が開かれたとき、人は誰でも神のみこころを知るようになるのです。

初めは、イエスさまに目を開かれた盲人のように、ぼんやりとしか見えなくても、イエスさまと居り、自分の大切なものを信仰によって渡して行くなら、みこころが見えるようになるのです。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)
私たちがこのように言うなら、神は真実なお方ですから、必ずそのことをして下さいます。

 
「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」(マルコ8:23~25)

「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ5:20)

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