石ころ

燃え尽きたノア(創世記9章)

 

箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤフェテであった。ハムはカナンの父である。
この三人がノアの息子たちで、彼らから全世界の民が分かれ出た。
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。
 彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。(18~21)

 

主の大きな祝福を受けたノアが、素っ裸で昼間から泥酔して寝ていたことに、人は塵に過ぎないことを思わされた。

 

カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
それで、セムとヤフェテは上着を取って、自分たち二人の肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔を背け、父の裸は見なかった。
ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知った。
彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」(22~25)

 

ノアの心の隙がもたらせた結果は悲しいことであった。孫を呪うような言葉を口にしなければならないことは・・。
聖書は真実をありのままに伝えて、不都合なこともすべてそのそのままに書かれている。それゆえに、偽りのない書であることがわかる。

 

ノアは燃え尽き症候群だったのだろう・・。塵に過ぎない者が大役を成し遂げると、神から距離を置いて羽を伸ばそうとする。それは、行っていた事が神の安らぎの中ではなく、緊張の中にあったことを現している。

 

今、私たちが聖霊の助けに在って、神と共に働く者とされたことは本当に幸いなことである。
聖霊の助けの中でみこころを聴き、備えられた力によって命じられたことを行う時、働けば働くほど幸せであり、それは神と一つの満足を得ているからである。

殉教するまで働いた使徒たちも、きっとこのような幸いの中で召されて行ったのだと思う。

 

上からの力は決して燃え尽きることはなく、何をしていても、していなくても、変わることのないキリストの臨在によって安息しているのである。

 

昨日と同じように今日もみことばを慕い求めて、御前に座り聴き続けるのは、勉強ではなく、苦行ではなく、新しく主を知る喜びの故である。
そう、神の愛があふれ出るみことばを、聖霊によって聴き続ける甘さのゆえである。


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