朝毎に、アベルの捧げものを捧げることができますようにと祈る。それは、主が求めておられるものだから。
聴く耳と、みことばを読み取る目を開いてくださいと祈る。主が、今何を求めて居られるのか知らなければならないから。
イエスさまはただ一度御自身を捧げられて、すべてを完了された。
しかし、私たちは今日の命をもって、今日捧げるものが何であるかを聴く必要がある。それは主と共に生きるためである。
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(4)
神さまに私たちの捧げものを証して頂くためである。それは、神さまが証してくださることばに拠って生きる者だから・・。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
主と共に生きる今日が御国の前味わいであって、信仰は主に聞く耳を絶えず開いて、みことばを待っている。私たちは、主のお喜びが嬉しいから・・。
今も、アベルの語っていることは、みこころの的を射た喜びである。