行いと真実をもって愛そうではありませんか。
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。(18~20)
兄弟を愛することを命じられているなかで、その愛について心が責められることがある。自分自身の心を腑分けするように覗くなら、絶えず責められ続けるだろう。
ただキリストに信頼して、自分自身に対する裁きをお委ねするなら、私たちは平安をたまわることができる。
キリスト者は、パウロのように自分で自分をさばく必要がない者である。
私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。(コリント4:3)
私たちは、兄弟はもちろん自分自身をも責めたり裁いたりする権利をもっていない。キリストのいのちによって買い取られた者であり、すでに私たちのすべてが神の御手に委ねられているからである。
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ・・(21)
私たちは、キリストに義とされて神の御前に出る者である。誰が自分の行いによって神の御前に出ることができるだろう。
私たちはキリスト信仰によって、大胆に神さまとのお交わりを楽しむことが許されており、それは神の家族の霊的な交わりであり、御国に行くまで続く祈りの中にある。
また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(22)
神の命令は愛すること。でも、愛を持っていない者がどうして愛することができるだろう。施すものを持たなくてどうして施すことができるだろう。キリストを知らなくてどうして、愛を語ることができるだろう。
それゆえ、神はすべての必要を満たしてくださる。それは神の命令を守り、私たちが神の喜びとなるためである。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(23)
キリスト者の愛は、何よりも神より受けた互いの賜物を分かち合って、キリストを知ることを共有することである。それこそ共に成長して、永遠のいのちを守るための必要だからである。
私たちは頭なるキリストのからだの各器官であり、すべてが御霊によって結ばれてあり、互いにキリストを分かち合って、一つのからだとしてみこころを成す者だからである。
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(24)
聖霊によらなければ、私たちのうちに神を受け入れることはできない。キリストの平安がなければ、うちなる神の存在を認めることができない。十字架の血潮に、完全に信頼しなければ、この事実に安息することができない。
しかし、私たちに三位一体の神の霊がおられるのである。だから神の子なのである。私たちを知り尽くしていてくださり、宇宙を造られた途方もなく大きな方が、永遠のご計画をもって居てくださるのである。
それゆえ、私たちはみこころに従ってどんなことでもできる。私たちは間違いを犯すが、神さまが間違えなさることはない。永遠をご存じでありすべてが完成しているのだ。此処に私たちの平安があるのだ。