石ころ

聖霊の導きによって神の主権を悟る(Ⅰヨハネ4章)

 

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。(1~2)


神から出た霊なら、すべてを通してイエス・キリストを知ることを導いてくださる。みことばを解き明かし、祈りを導き、日々の生活の中でも、折々にキリストを思い出させてくださる。


その方は、よみがえられたキリストの昇天によって、信仰者のうちに来てくださった助け主である。
聖であり義である神のキリストが人の世に下り、赤子として人の手によって育てられて、罪ある人に仕え、十字架の死にまで従順されたことは、有り得ないほどの神の謙遜である。


それは聖霊によらないと人には悟り得ないことであり、このキリストの謙遜を悟るとき、人は初めて神さまに対する謙遜を学び始める。
すべてのいのちの権利が、創造主なる神にあることを悟るとき、キリストの救いに心から感謝して、神を神として仕える甘さを知るようになる。


創造主を知ることは人の賢さによってではなく、聖霊の助けによらないと、どれほど賢くても造られたものに過ぎない人間にはキャパオーバーなのである。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)


神が人に仕えてくださったキリストの謙遜を知るとき、人は造り主なる神のご愛に出会い「初めに神が選び」という神の主権に、素直にひれ伏すことができるのである。


イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(3)


イエスを告白するとは、イエス・キリストを私のいのちの救い主と賛美し、父なる神を、愛する御子をたまわった神と礼拝することである。
にせ預言者がたくさん出てきても、聖霊によって神を礼拝する者には、サタンの知識は無用であり、それらを知るために費やす時間は無駄である。それらは聖霊によって見張られており、すでに裁かれているものであるから・・。


聖霊の導きによってみことばに浸り、すべての時を用いて主を知るために時を用いても、私たちは神の祝福のすべては悟りえないからである。キリストとの交わりは、残されている世の時間を最大限に用いるために必要な時間だからである。


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