こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(1)
旧約の時代から今に至るまで、信仰の先人たちが主にあって生きた証が、11章に列挙されている。
それは、現代の私たちに至る神の計画の歴史であり、すべてを一つとして完成されるために生きて来た一人ひとりの信仰の歴史である。
アブラハムに子孫を海辺の砂のように、空の星のようにと約束されたことばの成就に向かって生きた人々の証である。
わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(創世記22:17)
彼らは、私たちに遙かに勝る苦しみと忍耐を経て、神の計画の完成に備えて私たちを取り巻いている。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。(11:40)
主に在っては誰も一人ではなく、誰もその労苦を知られていない人はなく、昼も夜も霊は温かな声援を受けており、私たちは一つなのである。一人のキリストの花嫁の完成を目指して、この主にある大群衆がの応援団が今、私たちにエールを送っているのである。
私たちは孤独に思えても孤独ではなく、捨てられているようでも大応援団をもっており、弱くても神の計画の完成のための欠かせぬ者である。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(2~3)