イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(ヨハネ4:13~15)
サマリヤの女は、イエスさまのおことばを求めて「その人のうちで泉となり、永遠のいのちが湧き出る水」をたまわった。イエスさまは彼女に与えるために来てくださったのだから・・。彼女が水がめを放り出して町へ走ったのは、もう要らなくなったからである。
罪の重荷や、病による命の心配を下ろす場所は十字架である。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:29)
彼女はイエスさまとのお交わりによって、新しいいのちの希望が満たされた。本当にイエスさまに出会うと勇気百倍になるものなのだ。
だから、それまで顔を合わせたくなかった町の人々に走って行き、「私のしたこと」を用いてイエスさまを知らせたのである。
「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」
そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。(ヨハネ4:29~30)
「この方がキリストなのでしょうか」という言葉は、「見て確かめてください」という誘いの意味であり、彼女が信じていない言葉ではない。
信じて居ない人の言葉が人を動かすことはない。その言葉に誘われて人々はイエスさまを見に出て来たのだから・・。
その結果、サマリヤの多くの人が「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」という言葉を彼女は聞いた。
今も、キリスト者のひとり一人が聖霊の導きの中でこのようような告白ができるまでになれますように。
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