イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2:23~25)
イエスさまは御父のことばをお話しになり、御父のわざを行っておられ、ご自分からは何事もなさらなかった。だから、ご自身の評価は御父にあり、頼りない人のほめ言葉や責め言葉にご自身をお任せになることはなかった。
今キリスト者も主にすべてをお任せする者、人の評価や罪定めに任せる者ではなく、すべては主の裁きに身を委ねて安息している者である。
安息はキリストの十字架にあり、十字架のことばにその根拠を置いているのである。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)
鋭いみことばを向けられるなら、人には受け止めることができないと考えるから、割り引いて語り誤魔化して語ることになる。それは思いやりや優しさのようであっても主の言葉ではない。鋭いみことばは「神の愛」だから、そのまま語らなければ救いの実を結ぶことはない。
なぜ、主が人を追い詰められるのか・・、それはキリストに身を避けさせるために追い込まれるのである。キリストの避け所に追い込まれているとき、人は恐れと圧迫を感じるけれど、みことばを語る者は羊を安全な柵に追い込む犬のように、うるさく吠えながら追い込んでいるのである。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。(詩編91:2~4)
主に身を避けない限り人はだれであっても滅びる。だからみことばに責められる者に、避け所であり救いとして十字架のことばが備えられてある。
すべては真実にみことばに聴き、そこにある安息を得るようにと願ってのことである。
鋭いみことばの剣を振り回すことができるのは、その神様の願いと備えを知って居るからである。
イエスさまの靴の紐を解く値打ちもないヨハネが、命じられれば御子にバプテスマを授けることを承知するように・・。
このことはキリスト者の謙遜である。
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