それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:1~4)
「ぶどう酒がありません。」
ただ必要を訴えるという母マリヤの言葉が深く心に残った。
しかし、切羽詰まっていたようだが花婿の信仰には触れられていない。彼にそれだけの価値があったとかは書かれていない。
しかもまだ、イエスさまの働きの時ではなかった。
イエスさまは、「お母さんの願いなら・・」ということで奇跡をなさったのではなかった。その時他人のように「女の方」と言われた。
奇跡が家族間の願いによることではないとわかる。だから私たちもイエスさまに訴えることができるのだ。
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2:11)
祈りの内容が血には拠らず、また祈りの対象の信仰や、その価値にも拠らず、ただ、マリヤのイエスさまに対する信頼によって成就したわざであった。
花婿の祝福はイエスさまを招いたことである。イエスさまを心にお迎えするならいのちの必要は満たされ、そのことによって神の栄光を現す者とされる。
イエスさまのエピソードは、12歳の時にエルサレムの宮で教師達とおられたこと以外は書かれていないから、平凡な家族として30年以上暮らされたことがわかる。
しかし、マリヤはその間も「神のキリスト」に思いを巡らしていたのだろう。
それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。(ルカ2:17~19)
問題が目の前に現れたとき、人は常に心にあるものによって動く。何時も頼りにしている人があればそこに駆け込み、権威に拠り頼んでいるならそれを振りかざし、力があれば力尽くで・・。
マリヤの心には「神のキリスト」にあったので、とっさに拠り頼みそれによって神の計画を動かしたのだ。
キリスト以外頼るものを持たない心の貧しさによって、御国をたまわっているとはそういうことなのだ。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)
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