石ころ

口から出る言葉が人を汚す (レビ記11章)

 

主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。
「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。(1~2)

 

 神はイスラエルの民に食べて良いものと、食べると汚れるものを示された。それは、第一に従順を確認するためのものである。造り主への従順によって作られている体は、まさに神の祝福に在って健やかである。

 

キリスト者のいのちを健やかに保つ大切なことは、みことばを食事のように日々に取り込むことである。自分の霊を養い備えていないと、折々に聖霊が語り掛けるみことばも理解出来ずに、助けを受けられない体や魂が衰えて行くのだ。

 

動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。(3)

 

「反芻するものでひづめの割れているものは聖い」とあるが、主に導かれて世を生きる時に、必要な知恵はみことばであり、事々にみことばを取り出して反芻するように口に置き、自他に語り続けるなら導きとなり、その人生はみこころを行う主のご計画の中に在る。

 

「蹄が分かれていないものの汚れ」についての意味は分からない。霊である神のことばのすべてが、肉なる人間にわかるわけがないので、そのまま「アーメン」ということは聖いことである。

 

 今は、キリストが十字架で完成してくださったキリストの律法により、食物規定は解決されている。人は食べ物によって汚されることはなく、自分の心から出るものによって汚れるとイエスが教えられた。

 

口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」
しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。(マタイ15:11.13)

 

心を見張るのは聖霊の働きに拠る。示されたみことばの警告、違和感や平安の喪失、体の不調や祈りの環境が乱れることなど、そのしるしを主に信頼する者には、分かりやすく知らせてくださる。

 

「水に群がるもの、 羽があって群がり、地に群がるもの」は汚れていると書かれてある。
イエスをエルサレムに迎えて「ホサナ、ホサナ」と喜んでいた群衆が、一転して「十字架につけろ」と叫んだのである。群れるものはそういうものである。

 

イエスは群れを憐れんで養われたが、救いは一人ひとりに向かって語られたのであり、また個々に語り掛けて癒やされた。

男だけで5000人という群衆にパンを与えられたとき、彼らは聴いたみことばを覚えたのではなく、キリストにパンを求めた。

 

 主は十把一絡げで救うのではなく、交わりの中で導いてくださる。一人ひとりが自分の意志によって信じ、皆違うそれぞれの環境で自分自身を捧げ、救いの喜びに溢れてキリストのからだに仕えるのである。

主は一人ひとりに相応しく必要を満たして、最高のパフォーマンスに導いてくださる。
そのような主の愛と恵みに在る一人ひとりが、同じ御霊によって繋がれたキリストのからだであり、互いに聖霊に教えられたみことばを語り合い、主を喜び合うことこそクリスチャンの愛である。

 

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(Ⅰヨハネ5:1)


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