「迷える小羊」の話は、あわれに迷い続ける小羊の物語ではなく、一匹の小羊を見つけだした天の喜びの話であり、探し出されて今から始まる。のだと今週のメッセージで語ってくださった。巷に乱用されている言葉とはずいぶん違う。
人は性質において羊とよく似ている。羊は帰巣本能を持たないでいつまでも迷い続ける。羊は群集心理で動くもので、一匹が走り出すとみんな付いていってしまう。それもとても人間によく似ている。事実、ひとりで他人と違う方向に進むことはとても恐い。
イエス様は、そんな迷える私たちを探し見つけだして下さる。無力な赤子となって私たちの所に下ってくださり、人の弱さの中にご自分を閉じこめられ、罪人とされ十字架の死まで味わってくださったから、私たちの弱さや愚かさもよくよく知っていてくださる。
「小羊が飼い主を探し求めることはない。」と聞いたとき本当にそうだと思った。自分のことを思いだしてみても私は迷うばかりで、自分から真の神様を探し出したのではなく、神様が私を探し出してかかえるように、追い込み導いてくださったことがわかる。
なにもできることのない私たちだけれど、感謝なことに一つだけできることがある、それは主を求めること。よい羊飼いの声を聞き分け、その声を聞いて歩むとき、もう迷える小羊というあわれな歩みではなく、天を喜ばせる賢い歩みとなる。私の名を呼んで私に語ってくださるイエス様に、私は聞き耳をたててお従いしたい。導かれるところは緑の豊かな牧場。そここそ唯一貧しさも恐怖もないところだから。
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