母の日のメッセージで、カナの婚礼の箇所から母と子の関係を語られた。ぶどう酒の奇跡が中心ではなく、イエス様とマリヤを中心として語られたのが新鮮だった。
聖書って本当に深くて広くて飽きることはないなぁ・・そんなことを思わせられた。
マリヤがイエス様に「ぶどう酒がありません。」と今すぐの必要を告げたとき、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4~5)と十字架を語られた。
この箇所をヨハネ19章の十字架上の言葉、
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。(ヨハネ19:26)
「女の方」という言葉によって、奇跡の初めと終わりが繋がれていることに気付かせられた。そこから、イエス様の母マリヤへの備えが伺えて感動した。
メッセージがその場限りで終わらずに、聖書の世界を広げてくれることは楽しいと思った。
祈祷会で、姉妹が「わからなかった。文脈がめちゃくちゃで・・」と話されたとき、私も全く同じ事をよく感じていたので思わず「そう、そう・・」なんて横から口を挟んでしまった。
でも、姉妹のその言葉から多くのことに気付かせられた。
イエス様の答えは文脈に沿わず、会話としてはちぐはぐなところが多くある。イエス様が指し示しされる答えと、人の求めるステージがまったく違うのだ。
人は目先のことをイエス様に話す。訴える。祈る。
イエス様は未来を見て、約束や、忠告や、備えのために語られるから・・。
母マリヤに対して「何の関係があるのでしょう」という言葉を、母と子の関係に対するクッションとして備えられたように思う・・、
十字架のショックを和らげ、ヨハネという息子を与えるために・・。そうして彼女にイエス様を失った後も生きる力を準備されたのだと私は思う。
初めの奇跡の時に、イエス様は十字架のあがないという終わりの奇跡を語られていたのだ。そんな文脈が人にわかるわけがないのだけれど・・。
ちぐはぐに思えるイエス様のおことばを受けて、マリヤは「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と、今の必要が満たされることを信じた。まだ一度も奇跡を見たことが無いにもか関わらずである。
マリヤがイエス様の言葉の内容に依らず、御声を聞いただけで即座に行動できたのは、普通の暮らしの中で、イエス様との多くの応答があり、濃い関係が築かれていたからである。
信仰の文脈は、日々、時々刻々のイエス様との関係によって解くことができるのだろう・・。自分の中で育ててきたお方への信頼によって。
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