今がどのような時代であるのか・・それをヒシヒシと感じていても、この国にも主が憐れまれる人々、私たちの愛する人が一日一日を懸命に生きているのであり、苦しくても未来に夢をつないでいるのであれば、どうしてあきらめろなどと言えるだろう・・。
だから、望み得ないときも望み。主の忍耐を、憐れみを懇願しつつ一縷の望みもち続け、そっと祈り、憐れみを求めて哀願した。
いや、なを、終わりの日まで願い続けずには居られない。
アブラハムはソドムのために取りなし、主に懇願して受け入れられた。
彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」
主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。(創世記18:32~33)
しかし、終わりの時はある。アブラハムはもう口出しすることはない。
主の裁きは正しく私はそれを喜ぶべきである。主は御子の購いの血潮を流して救いの道を開き、裁かれたことなのだから・・。
ダビデは我が子の命を哀願して断食をし、眠ることさえないほどに主の憐れみを願っても、彼は主の裁きの後は異議を唱えることをしなかった。
食事をして元気を取り戻し主に従順した。そうして、彼は主のご計画を成す子ソロモンを生んだ。
まことに私たちに何が出来得よう・・。たとえこの命を差し出したとしてもそれが何になろう。自分の罪のために滅びるだけである。
人の命を、その罪を身代わりに負うことが出来るお方は、ただおひとりイエスさまだけではないか。
しかし、主よ。共に泣く涙を賜りますように。心が冷たく冷えていかないように助けて下さい。
「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」詩篇19:9
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。 」イザヤ49:15
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