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石ころ

教会



 いつも二人で「いつくしみ深き」を賛美して、声を揃えて聖書を読む。彼女は年を取っておられるのに、スラスラととても上手に読まれて、私は時々間違って「ごめん」といって少し戻って読む。

そんな二人の礼拝が終わったとき、彼女が「東北の震災に遭われた牧師さんが、テレビで話しておられたのを見た。」と話されたことをきっかけに、私たちの献金を送ろうという話になった。

 それは私も以前から願って居たことだったのでとても嬉しかった。何より彼女から提案されたことに喜びがあった。
すぐに、いったい幾らぐらいあるかと、彼女が預かっていてくれた紙箱を、テーブルにひっくり返して計算をする事にした。

私はだいたい半分くらい取り出したところで、「ねえ、これだけしてもいい?」と尋ねると、「ちょっと待って、まだ出来るよ。」と言われ、残りをすべて計算し終えたとき二人で「あっ」と言った。
それは端数のでない、きっちり○万円だったから・・。

私は変な気を遣って、半分なんて言ったことを恥ずかしく思った。主に捧げる物は、何も残さずすべてなら、それが最高なんだ!備えて導いて下さった主に感動した。

 彼女と二人で、こみ上げるものを感じて互いに目を潤ませた。 こんなに嬉しいことはない。こんな素晴らしいお金の使い方は知らなかった。
そのことの嬉しさは、互いの信仰を確認し合えたことであり、主が真ん中に居て下さることを知ったこと。

 さて、郵便振り込みで送金するとして、互いに相手の名前で・・と言うことで、それもどうも変だと話すうちに、地名の「ヒロタキリスト教会」ということでどうだろう・・ということになった。
「ああ、それはいいわ。嬉しいわ。」たちまちそういうことに決まった。

 郵便局で、「これはなんだ」と言われたらどうしようなんて、私はちょっとびびりながら振込用紙にその名を書いた。でも、事はいともあっさりと進んで無事に送ることが出来た。
なんだかとても嬉しくて、帰りに真っ赤カーネーションを買って記念に活けた。
領収書を持って行くと彼女は、満面の笑顔で「まだ心がほっかほっかしているよ。」と言われた。

 イエスさまは私たちをこんなに喜ばせてくださった。主にはお金なんか要らない。でも、私たちの必要のために、勧めていてくださる捧げ物なのだと身に染みた。

私たちの内、此処が教会なら、なんと主はユーモアに満ちた方なのだろうと思う。右も左もわからない二人の老婆の中に、世に見捨てられたような者の中に、ご自身の教会を建てられるとは・・。

しかし、主には人の力なんて必要ないのだ。人の誉め言葉も社会の評判も関係はない。人の教養でもなく知識でもない。
ただ、イエスさまを必要とする者の内に住んで下さるお方。そうして、必要のすべてはご自身が備えて、私たちに与えて下さるのだから・・。


わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(ヨハネ12:26)

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