石ころ

キリストの足跡(Ⅰペテロ2章)

 

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。

キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。(21~25)

 

キリストが私たちの罪科を負って、世に刻んでくださった御足跡は、神の国にある永遠のいのちに至る。
キリストの十字架の打ち傷によって罪赦された者が、その御足跡を踏んで行けば道は真っ直ぐで平であり、子どもであっても迷うことはない。

 

ただ、キリストの刻まれた足跡に自分の足を置いて行くだけである。難しい学問ではなく困難な修行でもない。それらはむしろキリストの足跡を辿ることに飽き足らず、それぞれの賢さに誘惑されて反れて行くのである。イエスは幼子を呼び寄せて

 

「神の国はこのような者たちのものなのです。」(ルカ18:16)

イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。(マタイ11:25)

 

以前は移ろい行く世の流れの中で、日々の遣り繰りに明け暮れ、人の顔色を見ては恐れや高ぶりを繰り返し、その日その日を凌ぐだけの目当ての無い生き方をしていた。
右に行く人を見れば右に行き、左に曲がる人があれば左に行き、進むべき方向を持たない羊の群れであった。

 

今は、キリストの御足跡を真っ直ぐに行く者である。それは天にまで至る道であり、唯一永遠に絶えることも移ろうこともない。

罪をあがなう十字架の死をキリストに拠って通り、新しくされて死からよみがえらされた者に備えられた道である。


キリストが開いてくださった神の愛の道は、みことばの導きによる助けが備えられ、聖霊の助けによって、神の義に生きることができる者となる。それが出来るのは、神がすべてのことを心配してくださるからである。

 

貧乏人も金持ちもキリストを信じて、自分の罪を十字架の血潮で洗われた人はみな、喜びの中で神をほめたたえつつ、主にお会いする日の望みに満ちて生きる道である。


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