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石ころ

賛美

 火曜日の人と、主を喜び歌うために賛美歌のcdを買った。
ずっと賛美出来ないことに私は不満だった。けれども私は音痴だし・・楽器もできない。彼女は教会を未だ知らず、賛美を経験していないので聞かせてあげたくて、いつも共にイエスさまを喜び歌いたいと願っていた。

この間、賛美の代わりに詩編を一緒に読んでいるとき、彼女がしみじみと「いいなぁ・・」と言われたので、思わず「賛美歌を買って一緒に歌おうか?」と言うと、喜んで賛成されたので献金からcdを買う事になった。


 ひとり部屋でクリスマスの賛美を聞いていると、降誕劇をしたときのことを思い出した。カーテンを被って博士のひとりにを演じたことなど・・。あまり練習もしない、いい加減な劇だったのだけれど、演じているひとり一人が結構面白がっていて楽しかったことなどを・・。

主を求めて歩いてきた日々は、「ひとつも無駄なことなどない」ということは本当だと心からそう思う。だって、すべては主の赦しの中にあったことなのだから。良いときも悪いときも主と居たことは事実。

しかし、この世を火の柱雲の柱によって導かれるキリスト者には、同じ場所に留まることがみこころとは限らない。私たちはただ、イエスさまにのみ枕して休らう者なのだから。


「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
・・・・
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:34.38)

すべてのことには時があり、主に導かれて、自分の成すべき事を成さなければならない。
ペテロがイエスさまをいさめたのは、彼が人の平和を求めたからだと思う。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

人が築いた神殿は、どんなに素晴らしくても崩されなければならない。それは神の作品ではないのだから。そこに主が住まわれることはない。
私たちは主をお迎えする準備にいそしまなければならない。
破壊される聖戦のチャンスがなく、穏やかな平和が続くということは、よくよく吟味しないと恐ろしいことでもある。

 主を賛美する歌は「イエス・キリスト」が明確でないとならない。主をあかしする言葉も明確に「イエス・キリスト」が語られていないとならないと思う。
誰を愛しているのか、誰をほめているのかわからない歌や証には、この世のものが混ざっていて、主を明確に語る時の聖霊の炎によって清められたものではないから。
それでは主をほめたたえることも証する事もできない。そのことは同じ主を知る者として、とても、とても残念なこと。

私には御国の夢がある。主の御側で何時までもいつまでもイエスさまを賛美していたい。御国では、どんなに長い時間歌っていても、決して疲れることなどないだろう。美しい声と喜びが次から次からあふれてくるだろう・・。

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