モーセはイスラエルをみな呼び寄せて、彼らに言った。聞け、イスラエルよ。今日、私があなたがたの耳に語る掟と定めを。これを学び、守り行いなさい。(1)
今は、イエス・キリストのことばが与えられている。聖霊によって導かれ、キリストの掟と定めを学び行うのである。それは、イエスから聴いた約束の言葉に留まることである。
キリストの十字架による御救いと、罪からの解放のみことばを覚えて生き、キリストの平安の中に住まう祝福を受けて生きるとき、主が備えられた宣教となる。
私たちの神、主はホレブで私たちと契約を結ばれた。
主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち、一人ひとりと結ばれたのである。(2~3)
十戒は選びの民であるイスラエルに対して、神が直接結ばれた契約である。神が掟と定めを示されるのは、罪によって彼らが見失った天にある祖国に帰還させるための導きである。
この道を通って帰って来なさいと、迷うことがないように神が備えてくださったのである。
キリストの救いの契約は、個々の状況、状態に在って結ばれる完全な救いの契約であり、主は、私たち一人ひとりをご存じで良き計画を備え導いてくださる。
誰かの行いに到達するということではなく、誰かの働きを真似ることでもなく、それぞれに主が備えてくださっていることを、お交わりの中で導きのままに生きることである。
それは無理がなく比較されることもなくて、交わりの中で導かれて行くとき、パーフェクトの喜びと満足をたまわって、感謝が魂を満たすものである。
神はこの契約を民族との契約ではなく、個人的な契約であると書いてある。そう、何時でも主の救いは個人的な交わりにある。3000人が一度に救われた時でも、一人ひとりがイエスに触れて救われるのだ。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(5~6)
創造主なる神だけが神に対する罪を赦す権威を持っておられる。人類の最大の罪は創造主を無視することである。
神は御子を遣わして命を与えるほどに、ご自分の作品である人を愛し、慈しみ、罪に滅びることから救って、ご自分の御許で生きる道を準備してくださったのである。
キリストの十字架は人類の罪を負ってあがなうものであるが、救いの契約は罪をあがなわれた感謝に溢れて、キリストを礼拝して迎え入れ、よみがえりのいのちによって新しくされた喜びの中で、生きていても死を通っても、主と共に生きる永遠の約束である。
人の如何なる善行も神に背く罪をあがなう価値はなく、罪の存在する者がその命を差し出しても自分を救うことさえ出来ず、まして他者を救うことなど不可能である。
それゆえ、完全な神であり完全な人であるキリストでなければ、人を救うことはできないのである。人は、この方だけを礼拝して永遠の刑罰から救われるのである。
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)