石ころ

安息日の命令(申命記5章)

 

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。(11)

 

みだりに唱えるとは、主との聖霊による交わりには拠らずに、漫然と御名を唱えて信仰とする習慣に対する警告であろう。
AIは誤りなくみことばを唱え完全な祈りが出来るだろう、しかし、それが主と何の関係があるだろう。

 

主を知りたいという愛の交わりを求めることもなく、生きて働くみことばに渇くことも無く、それゆえ主を経験することも無いままに、何十年も同じ言葉を唱え続けるだけの関係に、どうして主はご自身を知らせ永遠の愛を語り聴かせて、みこころに導くことが出来るだろう。

 

安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。(12)

 

安息日の聖別はいのちのための警告でもある。人は目の前の事だけを見て生きるから、神を忘れると日常に埋没して行く。目的を持って造られた命を、世で馬車馬のように消費してしまうのだ。人の欲望には際限がないから・・。

 

その命が80年であっても100年であっても、目先の日々に追われてアッという間であり、神からたまわっているいのちの猶予期間を使い尽くして終わる。

 

六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。(13~14)

 

神からたまわっている時は、みことばに従って生きることで、生まれて来た役割を果たすことにあり、その結果として祝福を受けて、主の栄光を現わすことにある。
永遠に導くための時として主に忠実であるなら、人生のすべてには意味があるものとなり、価値があるものとなる。

 

主を礼拝することがら始まり、みことばを聴いて歩む人生は、主の備えによって真っ直ぐにされ、造り主なる神に至る道を踏み固める一歩一歩となる。それが人の目にはどれほど取るに足りなく見えようとも・・、それは造られた目的に叶って生きた命だからである。

 

その時、神の愛は世に現れてサタンの奴隷状態に在る人々に、救いの計画の一端を負う働きをさせてくださる。みことばを知るための霊の目を開くことは、人の力ではなく聖霊によるからである。

 

神は私たちが主を知る前からすべての人をご存じであり、良い計画を持っていてくださる。みことばに触れて新しく生まれさせ、キリストの愛と平安の中に住まわせて、今日なすべきことを導かれる。

 

安息日が最重要とされていることは神の愛の現れである。「わたしに来て、わたしと共に休みなさい。」と命じられたからである。
世の思い煩いや明日の心配を主にお任せして、身を委ねてみことばに聴き入り、主を味わう御交わりの中で癒され力を満たされる安息である。

 

あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。(15)

 

すべてのキリスト者は世に生まれ育った者であり、サタンの奴隷であった時キリストによって救い出され、キリストの奴隷とされて祝福のいのちに移されたのである。
世の日々の記憶が薄らぐことはあっても覚えており、何処から救われたかを忘れることは無い。

 

それゆえに神の一方的な御救いに与った者として、未だ世にある人々に対する責任を感じるのである。ひとりだけ旨いことをして救いを得ても、芯から喜べないものがあり、聖霊は世に、今日の先に待っている危険を知らせよと叫ぶ言葉を満たされる。


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