石ころ

心貧しき主




心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:3)

イエスさまは究極の心の貧しい方だった。ご自分から出てくるものに拠らず、ただすべて御父から出ることを語り行われたとある。
何処を切っても金太郎飴のようにイエスさまのことしか出てこないのは、ずいぶんつまらないことのようだけれど・・心の中にイエスさまのことしかないのは、それこそすでに天の御国に居る状態なのだと思う。天の御国には他の価値は存在しないのだから。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(マタイ5:4)

世では悲しみは尽きない。もっとも悲しい事は、十字架のあがないが成就しないであろうと人を見る時である。でも、それは違っていた。「慰められる」とあるから・・。
祈りによってイエスさまに望みを置くなら、悲しみも希望に変わる。それは、主のご真実には一時的な気休めの言葉などないからである。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。(マタイ5:5)

地を受け継ぐことが、力と知恵には拠らず柔和だとは意外な言葉だった。
イエスさまは何時も柔和だった。厳しくパリサイ人たちの誤りを指摘されても、戦うことも滅ぼすこともなさらなかった。十字架に至る言葉をはっきりと語られたけれど、十字架刑に至るまで柔和の中で受け入れられた。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

今、私たちが柔和であることは損なことだろうか。いや、柔和であっても良いといわれることに救いがあった。悪者に手向かってはいけないと言われることはなんと気楽なことであろう。
勝利はすでに主のものである。信頼してみことばに仕えるなら、悪に煩わされることから解放されるのだ。柔和は主に安息する賜物である。

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