石ころ

神の選び(申命記18章)

 

レビ人の祭司たち、レビ部族はすべて、イスラエルと同じようには相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への食物のささげ物を、自分への割り当ての分として食べていく。
彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持たない。主が約束されたとおり、主ご自身が彼らのゆずりである。(1~2)

 

唯一真の天地創造の神が彼らの相続地である。彼らが受けた分は神の資産であった。
キリストの御救いに与った者は、永遠のいのちという資産をたまわって、神に仕える祭司である。

主にいのちを養われる者であって、働きにはキリストの聖なる祭司服を着せられる。救われる前日までと同じように世で働いていても、彼は神の子という永遠の存在とされたのである。
ただ目に見える所が良くても悪くても、信仰によってこの御救いに留まることに拠る。

 

神はご真実な方であり、すべてのものは主のうちにあるので、キリスト者の働きの必要は満たされ、その無学や弱さによって世で恥を掻くことはないが、備えられるものは世と同じものではない。

 

祭司たちが民から、すなわち、牛でも羊でも、いけにえを献げる者たちから受けるべきものについての定めは、次のとおりである。肩と両頬と胃の部分は祭司に与える。
あなたの穀物や新しいぶどう酒や油などの初物、および羊の毛の初物も彼に与える。(3~4)

 

主が割り当て地である者は、神に捧げられた命を受けて生きる者である。キリスト者は、父なる神に捧げられたキリストのいのちによって、永遠に生きる者とされた。

 

その必要は世の必要とはまったく異なり、世は限りある命のために働くが、キリスト者は主に拠って永遠に生きる者である。
そのいのちを持ってみこころを成すために生きる者であるから、日々に聖霊の導きによる新鮮なみことばを食べていなければ、健やかに生きて働くことは出来ない。

 

彼とその子孫がいつまでも主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主があなたの全部族の中から彼を選ばれたのである。(5)

 

主の選びには感謝に溢れて平伏し絶えず交わりの中に在って、その恵みが神からの一方的なたまわりものであることを忘れることはない。たまわりものがあまりにも分不相応だからである。

神が、もし正しくて力があり能力にも優れた者を選ばれるなら、彼が神の愛と憐みを悟ることは非常に困難であろう。それゆえにあらゆる面において、主の赦しと助けにより頼む者を選ばれたのだ。

 

イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

 

自分の弱さと愚かさの中で、選びのギャップに神の愛と憐みを味わう中で、傲慢や他人を裁く罪から守れている。
それは、全ての人を愛する神の愛から出た忍耐によることである。その不完全な弱さの中で「わたしを告げ知らせよ」という神の忍耐である。なぜそのような働きが許されるのか、それは聖霊がその不足を覆っていてくださるからである。

 

人はイエスによって造られ、イエスによって救われて再びいのちを得た。初めにイエスによって選ばれた者がその存在によって、創造世界のすべてに神の栄光を現わすためである。そのためには聖霊の導きによって、今日、主に求めるべきものを知る必要があるのである。

 

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)


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