もしレビ人が、自分が住んでいる、イスラエル中のどの町囲みの中からでも出ることを望むなら、主が選ばれる場所に望むままに行くことができる。(6)
自由に出て行く場所さえも主の備えのうちに在り、其処では神が共に居てくださる。そのことを窮屈だと、不自由だと感じるのは、誘惑されて神の愛の外に出て行こうとしているからである。
キリスト者は神の愛のうちに留まる必要がある。主のいのちの供給を受けて生きるものだからである。
イエス・キリストは神なのにすべてを御父により頼んで、ご自分からは何も計画されなかった。神の計画の通りに、無実の十字架さえも一切の働きを止めて、その命を敵の手に渡された。
キリスト者はこの事実を知っているので、世の理不尽に在っても平安が守られるのである。
わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(ヨハネ15:10)
彼は、その場所で主の前に立つ自分の同族レビ人と全く同じように、自分の神、主の御名によって奉仕することができる。(7)
「奉仕することが出来る」ことは、命の祝福であり健やかに守られている現れである。
世の働きは限りある命を生きるためであり、自分の存在を確かなものとする等であるが、キリスト者の奉仕は赦しから始まり、主との交わりの喜びがあり、主にすべての必要が満たされる賜物によることである。
あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたは、その異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねてはならない。(9)
そこにはあらゆる偶像礼拝があった。それらは、人が創造主を否んで作り出した神々である。自分の思いを叶えようと神々を産み出したのである。しかしそれらは何の力も無い。
ただ、悪霊がそれらを住まいとして、神のものであるいのちを奪っているのである。それゆえ神はそれらを忌み嫌われる。
あなたのうちに、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死者に伺いを立てる者があってはならない。
これらのことを行う者はみな、主が忌み嫌われるからである。これらの忌み嫌うべきことのゆえに、あなたの神、主はあなたの前から彼らを追い払われるのである。
あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。(10~13)
全き者とは愛なる神のご計画を、従順によってその身に実現する者である。御子を十字架にたまわるほどに人を愛する神は、その命が永遠の滅びに持ち去られるのを見過ごすことは出来ずに、ご自分のものを守るために命じられる。
確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがそうすることを許さない。(14)
滅ぼすものに従う者は滅びに至り、生かすイエス・キリストに聴き従う者はこの肉体が土に返っても、キリストの復活のいのちを受けて、霊は新しいからだをたまわり、愛の神と共に永遠に生きるのである。
神は今日も命じられる「あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない」
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)