石ころ

永遠の家





 日曜日に主人の納骨式をしていただいた。メッセージで確認と確信を語られて嬉しかった。
次男も熱心にみことばを読み、メッセージを聴き、賛美も一緒にしてくれたことが嬉しかった。
みことばによって、主人の今ある所を確認し、救いの確信を頂くことは何よりの平安のもとであるから・・。感情は時にずっと遅れて付いてくることがあるけれど、余り気にすることはないのだと思う・・、みことばによってどんどん前進することが、信仰の成長には大切だと思うから・・。

 以前聖書をお伝えしていた方が、「この間から行ってもお留守で・・、でも、そんなに心配はしていなかったよ。元気だとはわかっていたから・・。洗濯物を見る度元気だって思っていたし、留守で買い物に行っているのも元気だからだと思っていたよ。
ご主人はもう一番ええ所、イエス様の所でいはることがわかっているからね。大丈夫やってわかっているから・・」

肩を抱くようにして話してくださる彼女に、以前話して来たことがちゃんと伝わっていることが感じられてそれが嬉しかった。心配はしていないけれど、洗濯物などでそっと見守られていたんだ・・って、ほっこりとした温もりが伝わって来た。

 顔を合わせる度に何気に声をかけてくださる方々、そっと戸口に置いてくださっているお野菜・・。さり気なく気に掛けてくださっていることが良くわかる。
そんな中であっという間に暮れる秋の夜にも、安心してひとりで暮らすことができるのだ。ご近所ってありがたいとつくづく思う昨今である。

私は此処で残りを生きて行きたい。しかし、気になるみことばがある。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18)

みこころならば、私は主に身を任せる他ないだろう・・。それは、主がご計画をもっておられることだから・・キリスト者は世では旅人なのだ。

今、主人は永遠の都に到着している。その事実が現在どのようであるのかは知らないけれど、すでに主の御手の中にあるのだから。
いや、今世に生きている私もすでに御霊によって主の中にあり同じ事なのだ。主のみこころに在って生きるのだから。

確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。・・・(Ⅱコリント5:4~6)

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